友人宅で聞いた農業に関する興味深い話を二つメモしておく。
一つは、農薬を使わないことによる健康上の安全性とは別の有機農業のメリットについて。化学農業における野菜の生長過程は大きく以下の二つのフェーズに分けて考えることができる。
(1)二酸化炭素と水とエネルギーから、炭水化物(と酸素)を生成する過程。この炭水化物は結合して葉や茎などの植物繊維の主成分となるセルロースとなり、また野菜の甘味や栄養素の元となる糖やデンプンとして野菜の中に蓄えられる。
(2)炭水化物と窒素からアミノ酸、タンパク質を生成する過程。アミノ酸は重要な栄養素であるだけでなくうま味の主成分でもあり、タンパク質はもとより生物体としての野菜の形質を決定する本質的な要素である。
化学農業において使用される化学肥料は、(2)の過程で必要とされる窒素について、NO3-やNH4+等の形で水溶性の無機物イオンとして供給する。この場合炭水化物のほうは、(1)の過程で生成したものがそのまま使われる。つまり化学農業においては、(1)で生成した炭水化物を犠牲にすることなくアミノ酸、タンパク質の生成を行うことはできない。一方有機農業で使用する堆肥等の有機肥料にはタンパク質がふんだんに含まれている。このタンパク質は土に撒くとアミノ酸に分解する。野菜はこのアミノ酸を直接吸収するので炭水化物の貯えを切り崩す必要がなくなる。すなわちこの場合野菜の生命力や栄養素を奪うことなく、効率的に野菜の生長を促すことができる。
もう一つは食料自給率についての話。今や農業問題が語られる際の唯一の切り口になっているふしもある食料自給率だが、そこできまって参照されるのが農水省によって発表されるカロリーベースの自給率である。近年の数字は40%前後で推移していて、これが先進国の中でも異例に低い危機的な値であると宣伝される。ところが中身を見ていくとこの数字がなかなかの曲者なのだそうだ。最初のポイントは、これがカロリーベースの自給率であるという点。人が一日あたりに摂取するカロリー量のうち、国内で生産されたカロリー量が占める割合がこの数字の意味するところなのだが、カロリーベースで計算されることによって、必然的に比較的高い自給率を誇る野菜などの寄与が低く見積もられることになってしまう。人はカロリーから得られるエネルギーなしには生きていくことはできないが、当然それだけでも生きていくことはできない。生体の機能を調整し維持していくためには腹にたまるカロリーだけでなく、野菜等から栄養素を摂取することも欠かせない。そこで消費者の食行動にとっての価値をより正確に反映するために、カロリーに代わって価格を採って計算してみると(生産額ベースでの食料自給率)、日本の食料自給率は70%程度まで上昇するという。
次のポイントは食肉の扱いだ。自給率の計算において、食肉が国内生産分にカウントされるか否かは、実はその肉が国産であるか否かには依存していない。というのは、食肉の場合、その家畜を育成するために与えられた飼料にまで遡って計算が行われるからだ。すなわち、いくら国産の食肉であっても、その家畜が輸入飼料によって育成されていたならそれは実質的に輸入肉と同じ扱いになってしまう。実際に国産の食肉の多くは、トウモロコシ等の飼料の大部分を海外からの輸入に頼っていて、このことが食糧自給率低迷の要因の一つになっている。耕地面積の限られた日本では当然アメリカのような大規模栽培によって大量のトウモロコシを生産することはできない。だとしたらもし仮にアメリカからの輸入が途絶えてしまったとしたら、その時我々は肉を生産することができず飢えに瀕することになってしまうのだろうか。米を食えばいいじゃないか、というのが多少誇張化された友人の意見だ。食肉というのはエネルギー効率の観点で見ると非常に出来の悪い食材で、牛肉などは1kgを生産するためにその11倍もの穀物を必要とするという。だから我々は、輸入が途絶えたからといって、肉の生産を賄うためにわざわざ広いトウモロコシ畑を開墾する必要はない。肉の生産に必要とされる穀物の1/10程度の米を生産してそれを直に食せば、それだけ耕作面積を節約することができるのだ。
ではなぜ、このようにわざわざ低めの数値(カロリーベースでの食料自給率を公式に発表しているのは日本と韓国だけだという)を掲げてまで食料自給率の危機が声高に叫ばれているのだろうか。こうした危機的風潮が作られることによって利益を得ているstakeholderがどこかに存在すると考えるのが自然な発想だろう。これだけ自給率を問題としておきながら、一方でコメ農家には減反を奨励し、また国内農業保護のためと称して米に778%もの関税を掛ける農政。その意思決定に積極的に関与する族議員たち。コメ農家が組合員の大半を占め、米価に比例した出荷手数料によって収入を得る農協。これらのプレイヤーを、口利きや票といった補助線で結べば真実の一端がおぼろげながら見えてくるのではないだろうか。