どういう話の流れだったか、深夜に居間でコーヒーを飲んでいるときに大学時代のバイトの話になった。長い休みの期間に国際会議場での単発のバイトを入れる程度だった僕とちがって、妻は僕と出会う前の一回生の時から、わりとみっちり働いていた。平日の五日間、時間は六時から十時まで。丸太町辺りにあった夫婦経営の和定食屋で、給仕と調理の手伝いをしていた。僕も一度だけ夕飯を食べにいったことがある。彼氏ということにすると何かとアレだから、客ということにしてくれといって、すまし顔で豚の生姜焼き定食のお膳をもってきてくれたきり、結局一言も口をきいてくれなかった。あとになって、あれは薄情だったとか、客扱いにしては顔色が可笑しかったとかさんざんネタにした。あのお店は今どうしているのだろうという話だった。
妻によると、お世話になったきっかけは、その店の常連客で、当時その近辺を流していたタクシー運転手の伯父による紹介だったそうだ。店の女将さんは料理の仕込みから味付けの仕方まで、何もわからないヒヨッ子に一から手ほどきをしてくれた。女将さんによると、一度通じれば舌が覚えてくれるから、あとは調味料の分量なども覚える必要がなくなって一生役に立つ、ということらしかった。果たして結果はその通りで、自分が今ろくにレシピを参照しなくても手元にある材料でそれなりに賄えるのは、あのときの手解きのおかげ、ということらしい。
今になって驚くのは、田舎からやってきた縁のうすい学生にわざわざ時間をかけて一生ものの知識を伝えてくれたことだ。伯父さんも癖のある人だったから大して好かれていたとも思われないのに、縁を受け入れてくれたのである。それなのに、去り際は恩に反比例してなかなか非道いものだった。夏休みをずっと一緒に遊んでいたい、との僕の一心で、挨拶もそこそこに店に行かなくなったのである。
「かど」という名の京都の料理店はもうインターネットにも見当たらない。当時の夫婦が今の僕たちと近い年齢だったとすると、もう引退して店をやめていてもおかしくない。姪に世話を焼いてくれた伯父さんは十年以上前に亡くなった。
「ありがとう」の反対語は「当たり前」、と言った人がある。大人たちが敢えて敷いてくれた道を踏み荒らしていくのが若者なのだとか、礼が言えない以上、次の世代がそういう大人を目指していくしかないだとか。したり顔で説かれる摂理の数だけ、返礼されなかった好意があるということだ。
恐ろしい言葉である。