即席チームで挑んだ幼稚園サッカー大会の前日に衝動買いで手に入れた望遠レンズが、ずっとカメラに嵌ったままになっている。これまで酷使してきた105mmに比べると、300mmの焦点距離がもたらす拡大力は絶大で、標準ズームが、目を凝らしたり一歩引いて見たりする人間の動作の延長にあるとすると、そこからはっきりと遊離した世界を見せてくれる。遠いものを近くに引き寄せてよく見るといった場合に限らず、中景にフォーカスを当てた場合でも、同じ画角で撮られた105mmの写真に比べると、300mmでは前景と背景がボケの度合いがまるきり違う。人間の視覚はおそらく瞬間的には一点にしか焦点が合わないので、僕たちが見ている映像もその一瞬においてはとても被写界深度の浅いものなのだろうけど、視線の走査を停止したその瞬間の画像を、あらためて手に取って眺めてみると、新しい感覚のリアリティが立ち上がってくるようだ。
この感覚をもう少し検討してみたくて、日産スタジアムの当日は随分と父兄たちに冷やかされたこの砲台のようなレンズを肩に引っさげ、土曜日の夕涼み会に出かけてきた。神輿を担いだり、友だちとはしゃいだり、矢倉に下がった提灯をじっと見つめていたりする年長の同級生たちの姿が、写真にしてみると、表情の喜怒哀楽にかかわらず、どれも愁いを帯びているように写っていたのは不思議だった。これは端的に、賑やかな雑踏から一人一人を切り離して、孤立した空間に浮かび上がらせるレンズの効果なのだろうけど、もう年長で、この友達とも最後の祭りなのだという彼らの心のうちの覚悟が光の揺れとなって写っているようにも見えた。刹那に賭けることの切なさが画面に溢れていた。