ああ楽しかった。六年近く通っているボランティアの仲間との飲み会があって、しかし彼らと向かい合って酒を飲むのはこれが初めてだった。だからいつもは巧みなトークとフリで皆の会話を気持ちよく廻しているボス(同年代の、僕の尊敬する人物)の、タガが外れた姿を見るのもこれが初めてだった。聞き上手の(それでいて十分に咀嚼できているとは思えない)女子大生に彼がツバを飛ばしながら語っていた話題のオチのなさ、エロ話で盛り上がっている僕らの傍らから「革命」なんていううぶな言葉も聞こえてきて、最初は驚いたけど、すぐに人間的な愛おしさが取って代わった。立派に見える振舞いを後ろで支えている努力や苦心まで少しでも目を届かせたいと思って見てきた彼の決壊ぶりに、やっぱり苦しんできたんだ、闘ってきたんだって。
大きなジョッキのビールも、終電までの時間もあっという間になくなって、さあどうしようと駅の前で屯する集団には大学生のような懐かしい乱痴気。でもシャイなアジア人は語ったり本当に騒ぐことなんでできないんだから、自然にカラオケルームにたどり着く。モニターに流れる歌詞の中には、僕らが普段使う言葉はほとんど含まれない。ごめんね、ありがとう、信じてる、どうして抱きしめてくれないの?口のするのも憚られる言葉、その中でもネットに流す身も蓋もない本音を除いた、intimateでpersonalでself-forgivingでsentimentalな心内語がアジア人のトーラーなのであって、祭壇に向かうコの字型の席は敬虔な音楽の調べに身を委ねている。僕もその空気を壊さないように、歌詞の意味も分からないまま歌を選んで歌った。例えば『人生を語らず』とか。
ボスが、彼らしくもない粗雑さで無理やり膝を交えてきたのはその辺り。お互い不器用にしか生きてこれなかったと思うんだ、という完成度の低いフリで、僕は焦ってそれにうまく答えられなかったんだけど、答えられない理由の方はなんとなく分かっていた。彼が、僕をただの「出来上がった人間」、話をまとめるのが上手な人畜無害のエリートとは見ていなくて、何者かと闘っている心意気を感じ、そこに共感してくれているのは嬉しくても、やっぱりあなたとは闘っているものが少し違う、自分はあなたのようには闘えないし、その訳を話すためには自分の最奥の秘密を明かす必要がある、という意識が、話を宙に浮かせた原因だった。大学を出て入った会社で定時まで働くだけでは十分に稼げなくなり、誰もが四苦八苦して糊口をしのいでいる今でも、「闘っている」と自認できる基準はそれほど下がってはいないと思う。何かに耐えたり、我慢していたりするだけでは、自分は闘っているんだという己をpump upする意識はなかなか持ちにくくて、そこには時代の趨勢に抗っているという異端者の自覚が、それも非行や逸脱ではなくて、隠れた社会的使命やら一般意志やらに従っての善導なのだという、英雄性の自覚がやっぱり必要だ。だから普段は「闘っている」と強がっていても、お酒が入ると周囲の無理解という弱音がどうしても染み出してくる。英雄は屠られなければ英雄ではないという逆説。ほら、中島みゆきの歌にもあるでしょ、「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」って。
でも四十近くになると、そこを一歩深読みしたくなる嫌らしさが出て、僕らが見下しているものも誰かにとっては立派な闘いなんじゃないか、という命題の真偽を探りたくなる。国破れて山河ありというが、あの始発電車待ちの薄汚い駅前の広場だって、皆にとっては等しく戦場の跡だったのかもしれないって。