夕方、友達夫婦がやって来て新年会。昨年末に亡くなった大滝詠一を追悼して、生前に発表された全てのシングル+三ツ矢サイダー等のCMソングを焼いたCDを持ってきた。CDとレコードを合わせて2000枚だか3000枚だか所蔵し、昨年もクリスマス・アルバムだけで15枚買ったという収集家だが、神奈川でも高校時代からの馴染みのレコード店が次々と撤退しているようで少しさみしそうだった。タワーレコード横浜モアーズ店の閉店日には、終業の時間を過ぎても音楽ファンを酔わす珠玉のBGMが店内に流れ、去りがたい客の足を止めるという光景が見られたそうだ。中高時代にこの友達とレコード屋や本屋で買う金もないままジャケットや背表紙を眺め、憧れながら延々と駄弁っていた時間の長さを思い出すとき、僕らが生まれる前に生まれた音楽や文学は踏み越えて突破するべき教養であると同時に、郊外型の文化消費におけるコミュニケーションの一つの拠点であったという思いも新たにする。画一品の象徴のような形をしたあの反射する円盤の手触りさえ捨てられ、不可視な信号のダウンロードによって文化消費が完結するとき、個別に掘られた井戸のような空間の中で音楽が奏でる響きはどのようなものだろう。教養としての権威、拠点としての強度が不要になった音楽には今や、そのような消費生活を肯定し、孤独に弱った神経を慰撫するお粥のような役割が期待されているのではないだろうか。そうして井戸の中で響く音楽は、僕らをますます他者の体温からどんどん離していくような気がする。
長く引きこもっていた同級生が、奮起して立ち上がり、シェアハウスに居住しながら都内で働いているという話を聞いた。それほど親しい仲ではなかったが、見知った命の再生という意味では、結婚の次の各駅停車駅で子どもが生まれました、などという話よりも一種うれしいニュースであった。