夕焼けのきれいな一週間だった。月はちょうど半月を跨ぎ、日が没すると同時に日照面を真西に向けて南中した。
「お月さまは燃えるの?」
「でもなんで夜でも明るいの?」
息子との会話を楽しみながら夕暮れにベランダに立つ毎日を送るうち、運動会からあっという間に一週前がたってしまった。
運動会のこと。まだ競走の何たるかも分かっていない様子の年少ならではのかけっこ、各々好き勝手な方向を向いてのお遊戯。今年一回限りしか見られないであろうシーンのいくつかを親の僕たちも声を送って楽しんだのだけど、あれからしばらく時間がたって、興奮が冷めた気持ちで振り返って見ると、あの日の印象が一つの静かな風景によって占められているのに気づく。
それは、参加した園児たちが、自分たちの家族の場所に戻り親やおじいちゃんおばあちゃんと一緒にお弁当を囲んでいた昼休みの風景。四角い演目用のスペースを取り囲むようにきちんと並べられたシートの上で、それぞれの園児が家族と交わし合っていた雑談の静かなざわめき。昼休みが始まったばかりのその瞬間は、本当に全ての人が家族との時間の中に快く寛いでいるように見えた。気を散らして立ち上がっている人もゲームや携帯をいじっている人も一人もいない。出来あいの食べ物で済まそうという人もなく、全てのお母さんが自作のお弁当を持参し、蓋を開け、家族に取り分け、飲み物を配っていた。それぞれの食事と語らいが焚き火の熱のように家族が囲む小さな空間を満たしている、とても温かい時間だった。
そんな打ち解けた時間の中で、妻のお母さんも、僕の両親も、妻や僕が子どもだった頃の運動会の思い出をぽつぽつと話してくれた。昔良しとされたことの多くが色褪せていくように見える時の流れにあって、この運動会に限って言えば、彼らの追想の中の運動会となんら変わるところのない新たな思い出をもたらしてくれたのだと思う。
園児の指導から、会場の設営、当日の熱のこもった進行まで、変わってゆくものを変わらずに支えていくため奮われた幼稚園の先生方の努力。お母さん方のお弁当やおじいちゃんおばあちゃんの声援も。それらはずっと続いてきた営みを守っていく何ものにも代えがたい気持ちの表れだった。そしてその中心にある、いつの時代も変わらぬ子どもたちのひたむきさ。
運動会の他に何か新しく、何十年間も愛される幼稚園のイベントを考えろと言われて、一体どれだけの人が全うなアイデアを出すことができるだろう。多くの人によって良いと判断され守られてきた営みは、知性による計算の産物によって容易に代替することはできない。大鉈を振るってゼロから組み立て直そうとしても、人々の心に受けとめられるまでに結局同じだけの時間が費やされるだろう。人の手によって作られたものは、少なくとも素手で扱わなくてはならない。変えるなら丁寧に、守るなら力を込めて。静かで、永遠のように心落ち着く昼食の風景を見ながらそんなことを考えた。