午前中から海水浴場を求めて車で加太の海まで行く。僕にとっては11年ぶりの加太、水の色も濃く、海の向こうに友ヶ島を望む絶景であったが、人影もまばらで遠浅とも言えない海に、息子はちょこんとだけ足を着けて「もう帰ろうか?」
お母さんの記憶では五キロほど離れた磯ノ浦の方が遠浅で波も穏やかとのことで、じゃあ磯ノ浦に行ってから帰ろうかと。以前とは道が変わっていたようでやや苦労して磯ノ浦に到着すると、果たせる哉、五十メートル進んでも一メートルも下らないんじゃないか、というほどの、これまで見たこともない遠浅の海。それでも「磯ノ浦、入らない」と母ちゃんの手を握って二の足を踏んでいた息子だが、僕とお母さんが「足だけ着けてくるわ」とゆっくり干潟を歩き始め、「どうでしょうね?」などと話しながら何十メートルも進んで振り返ると、のしのしとこちらへ向かってきている。殆ど波の来ない浅瀬で、膝まで水に浸けるところまできて、これは行けると確信に変わったのだろう。水着に着替えることも自ら志願して、結局、波乗りジャンプから水辺での砂遊びまで、海水浴のやる遊びを一通り満喫することができた。心の中のハードルを一つ越えたことで、息子の顔は満足感でいっぱい。
そんな笑顔を見て、言葉の達者でない子どもとの付き合いでは、子どもは大人の意向をほぼ100%理解しているという前提を決して忘れてはいけないと改めて感じた。「せっかく海に来たんだから体くらい浸からないと」、「ほら、みんなも遊んでるよ」などといらぬ世話は焼かなくても、親が今日は海に行くよと言い、実際に海で他の子どもたちが遊んでいるのを見れば、子どもは全てを了解する。それでも足が前に出ないのは、大人にとってはある程度常識化されている海の危険性を、この程度だろうと計算するための知識が子どもにないからで、子どもの葛藤はそんな計測不能の不安との戦いである。「海入らないよ」というのは、その葛藤を十全に表現する言葉を持たないが故に発せられた表現であって、アホでもない限り本当に海に入らないでこのまま帰るのが最善だ、と思っている訳では決してない。親は目先の結果を求めて無駄な説得に精を出すより、子どもの中で膨張している不安の分析に努めた方が、長い目で見ればよほど奏功すると思われる。
そうやって僕らが水と遊んでいる小一時間、お母さんはずっと日傘を差しながら浜に座って待っていてくれたのだった。約六十年前、今は亡きお父さんとお母さんに、三人の兄弟と一緒に磯ノ浦へ連れてきてもらったことを思い出していたそう。時はかくも疾く過ぎたり。