オフィス用のトラックボールやHD、電話機を買うためにヨドバシカメラに行った。レジに並ぶと金額の表示されるモニターに見慣れた文字が。思わずテンションが上がって、
「すいません、このお名前、なんとお読みすればいいんですか」
「○○○○と申します」
「あ、いや、下の名前は」
「○○○ですが」
「うちの息子と全く同じ名前です!読み方も」
「えっ、そうなんですか!?私自分と同じ名前初めてですよ、なんか嬉しいなあ」
と、親馬鹿の不躾な詮索に気持ちよく応じてくださった。
昨日見た『おくりびと』の余韻が残っていて、今日は何かにつけて目がうるうるする。広末涼子に関わる演技、台詞、プロット以外はほぼ完璧な映画ではないか。あの広末涼子演じる透明感だけが取り柄の底の浅いキャラクター設定も、さもなくば重苦しい展開をする主題の幕間に、中指を立てるために観客に与えられた余白、と考えると、したたかな演出と言えなくもない。とは言っても、遺体を丁重に棺に納める作業も、映画製作も、結局のところ生き残った人間のための儀式だからね。生きている人間は、死んだら仲直りできるなんて、甘いことを考えて生きてはいけない。生きているうちにやれることはやっておかないと。
帰り道、書類をコピーするためにコンビニに寄ったら、前のおばちゃんが大量の紙を抱えて悪戦苦闘していたので、ボォーと雑誌の表紙を眺めながら待っていて目に飛び込んできた文句。
「セクハラ騒動を越えて暴発寸前!全開山岸舞彩ごっくんボディ」
どうやったらこんな文章書けるんだろうと思ってしばらく考えてたら、これ、「越えて」、「暴発」、「全開」、「ごっくん」の主語が全部違うんだよね。短いフレーズの中で潜在的な主語を矢継ぎ早に入れ替えることで目眩く表象を喚起するという。世の中には色々な才能があるものだ、と感心しつつ、同じ紙面で「アベノミクス緊急座談会」ってどの口が、などと思いながら帰宅してこの表紙の画像を見せたら、妻が「清水健太郎って。。。ビーバップの末路はこうなるんだって感じだよね」としたり顔。それ健太郎じゃなくて宏次朗でしょ。もう訳わからん。ちょっと場内混乱気味の一日でした。