ある人物がいる。それは僕らの知人であり、僕らはその人物のことを「よく知っている」。しかし彼/彼女が心を留むべき陰影をもった一介の人物であるならば、僕らは、その人を「知っている」に止まらず「気遣う」ようになるだろう。目上の人への気兼ねや、社交上の配慮のことではない。日本語の「気遣い」に含まれている、当の人物が良からぬ反応を起こすことへの懸念という予防的な意味を捨てると、「気遣い」にはその人へ無条件で心を配るという積極的な動機が残る。ある人に心を動かされると、人はその人の上に自分の存在を重ねようとする。あるいは積極的に自らの心を関わらせようとする。
僕と妻はある人物に「気遣い」をもっている。その人物は、息子であっても、僕の家族、友人であっても、彼女の家族、友人であってもよい。あるいは僕自身のことであってもよい。僕は妻との会話から、その人物の心の有りようについて教えられる。それは精神科医が患者の心を解剖した見取り図のようなものではない。地下の暗いお堂にそっと足を踏み入れた時の靴音の反響、頬をなでる冷気のような、その場にいなければ得ることの難しい感触。入口からの光が弱まると、自他の境は曖昧になり、黴のような臭いが鼻をつく。そこは無論居心地の良いところとは言えない。肝試しを中断するように、僕はそこで引き返す。それでも地下の気配はずっと五感の中に残っている。日々の生活が流れ、またその人物についての会話を交わす時がやってくる。彼女は、前に立ち入ったときよりも深い場所に立って僕を呼んでいる。光は前よりも弱くなっているけど、僕はその声に導かれて、もう一歩だけ階段を下りる。更に増した冷気に身をゆだねると、神経が震え、やがて全身に血が巡って深いくつろぎに包まれる。恐れがまた少なくなり、外気に反して胸の内に温かいものが漲ってくる。生きることは、大きく羽根を広げて見晴らしを得ることではない。ただ静かに、ゆっくりと沈んでいくことかもしれないと、彼女との生活は教えてくれる。