夕方から中高の友達二人に会いに新橋へ行く。友達が同窓会やFacebookを通して知りえた同期の消息を聞いていると、医者や弁護士、会計士、大企業のサラリーマンという話しか出てこない。それでも彼によるとうちらの代はこじんまりとまとまり過ぎているそうだ。確かにあそこには色々な資質をもった人間がいたはずだが、それがみんな聞き覚えのある肩書きや企業名の下に収斂してしまったような印象がなくもない。試験に合格したり、資格を得たりというシステムの中の通過儀礼を順調にクリアしているという話は、中高時代の噂話の延長のようで、理解しやすい反面、広がりがなく、それでいて退屈を伴った安心感も与えてくれる。その安心感の根底には、有名進学校に受かる学力をもった人間なら、その努力を延長することで、指定席つきの船に乗り込めるという図式があるのだが、問題なのはその図式がかなり前から崩れかけていて、僕の同期がぎりぎりそこに間に合った世代であるように見えることだ。教育産業の仕事とはつまるところ、出資者である親世代にとって心地の良い価値を謳い続けることだから、社会の変化には必然的に一世代以上遅れてついていくことになる。競争社会の成功者を自覚するならば、教育産業のこの愛撫を振り払って、自身の体験が後代には通用しない可能性を認める勇気も持つべきではないだろうか。僕らの親世代は実は僕らよりも強い学歴コンプレックスを持っていて、そのことが僕らの世代の国際的競争力や社会的変動への適応力を殺ぐことに手を貸してきたことは、僕ら自身が誰よりも良く知っていることではないか。