新聞やテレビのニュース番組に触れない生活にはかなり慣れたつもりになっていたが、このように大きな事件(容疑内容はともかくとして、国会議員でありかつ政権一の実力者の秘書であった人物の逮捕という事実の重大性という意味で)が起こったときに、事の詳細を正確に伝えてくれる手近なメディアが存在しないのは些か困った事態ではあるな、と痛感した。十六日付の主要五紙の社説や記事を読み比べてみても、例えば郷原伸郎氏が指摘する「実際には04年の陸山会の収支報告書には小沢氏からの4億円の借入金の記載はある」という事実を踏まえて、何が現職国会議員の逮捕に踏み切るほどの重大な違法性を帯びた事案であるのかといった読者が疑問を持つであろう問題についての解説はなく、揃って「自浄能力が問われる」や「説明責任を果たせ」といった訓話で余白の多い紙面を埋めるのみだ。収支報告書に記載された小沢氏からの借入金とされる4億円(リンク先pdfの162/167ページ)について、石川氏のあいまいな証言が示すように「小沢氏宛ての銀行からの融資」でなく「小沢氏からの手渡し」であったとして、それが政治資金規正法上どの程度違法性を問われるべき問題であるのかについて、法の条文を知らない多くの読者には判断のしようがなく、法の専門家による解説を求めるしかないのだが、少なくとも新聞やテレビにそれが出ることはない。また多くのメディアが認めるように、小沢氏の4億円の原資こそが捜査の核心であるとするならば、政治資金規正法違反という名目による逮捕は語の正確な意味における別件逮捕のはずであるが、そこに踏み切った検察の判断の妥当性に対する検証のそぶりも見られない。捜査当局からの同一のリーク情報を元に、各社の文体的意匠やイデオロギー的味付けを添えて組み立てるだけの記事にはもう慣れっこにはなっているものの、これだけ真相に迫らない大手メディアの記事が並ぶと、多少暗澹たる気持ちに襲われる。
いつから新聞は官報まがいの記事で埋め尽くさせるようになったのだろう。僕らが小中学生の頃は、新聞の社説は論説文の模範と教えられたが、今もそのように子供に教える国語の教師はいるのだろうか。ネットの普及によって、良くも悪くも従来のさまざまな常識が解体される中で、メディアの第四の権力としての側面、巨大な既得権益としての実態に多くの人が気づくようになった。僕らにはもう報道を、事実や公平性の模範的な告知として素直に受け取るナイーヴさは許されていない。メディアが報道する事実を選択し、解釈し、記事として公表する回路を念頭に置いた上で、それを減算して記事を読むこと、彼らがフィルターをかけた情報について想像力を働かせることが、ますます求められてくるだろう。時間のない僕らには非常に手間なことではあるが、長い目で見れば、市民としての見識を磨く学習機会の提供という意味で、これはむしろ朗報なのではないだろうか。今回の事件は、民主党が目論む取調べの可視化等に対する検察よる組織的防衛に根を持つものなのかもしれないし、そうではなくて、現在の政権の中心に居座る人物が本当にとんでもない巨悪であったということなのかもしれない。今のところ僕にはほとんど真相は見えていない。慎重に見定めていく必要があるが、少なくとももう大手メディアを頼るという選択肢は失われている。