今日は妻の病院に二人が付いてきてくれた。快晴だが風の強い一日で、甥は細い髪をなびかせながら僕の手を握り「寒いぞ〜」と何度も叫んだ。待合で退院する夫婦がおばあちゃんになった女性と共に時間をかけて何枚も記念撮影をしていた。赤ちゃんは白い布に包まれて静かに眠っていた。エコーの画像を見るために許可を貰って二人と一緒に診察室に入った。僕はほとんどその白黒の画像に目をやることなく、横たわる妻とモニターを交互に見比べている甥だけをぼーっと眺めていた。妹さんがお医者さんに色々と質問してくれるのが耳に入った。パンを買って帰り、お湯を沸かしてコーヒーを飲んだ。食後、妹さんの言葉を復唱しながら甥が妻のおなかに手をあてて中にいる人に向って何回も声をかけた。その後、三人はみなとみらいのホテルに泊まるために家を出た。僕は一人になってからすぐに洗濯をした。仕事を始めると急激な眠気に襲れたので一時間ほど昼寝をした。起きた時にも日はまだ残っていた。仕事をして二時間ほどピアノを弾き、夜ご飯を食べてからまた二時間ピアノを弾いた。気づくと妻から写真付きのメールが届いていた。ホテルの窓から港を見下ろす母子の写真と、夜の観覧車の写真だった。それを見てから風呂に入った。湯船に浸かりながら、結婚前の妹さん夫婦が初めて家に遊びにきた日のことを思い出していた。桃電をやってはしゃいだこと、玄関先でのつまらない冗談、夕闇に黒く浮かんだ光のないスタジアムの照明。あの時間のことを甥は知らないのだろうな、と思うと突然、信じられないというより許せないような気持ちが湧いてくるのを感じた。あの日の少し前に二人は付き合い始めていた。もちろんその時まだ甥は生まれていない。あの日から数年後に二人は結婚し、そのまた数年後に甥は生まれたのだった。だから物事の順序を普通に考えれば甥が、付き合い始めた二人のことを知っている理由はなにもない。にもかかわらず、二人の間に生まれた子が、夫婦の生物学的な所産であるだけでなく、二人が結束し時間をかけて育んできた想いや夢の結果でもある以上それを知っていても当然だという気持ちも抑えられなかった。ましてや今日の僕たち夫婦の記憶、つまり甥が妻のおなかに向かってかけたくれた言葉について、次に生まれてくる人が知らないとしたらと想像すると、それはもうほとんど激しい怒りのようなものに変わった。僕は次々と、子供を授かった僕の知る夫婦たちのことを、まだ二人だったころの姿と重ねて思い浮かべた。挨拶にきた夫婦、結婚を祝ってくれた夫婦、パーティーでの会食、いくつかの結婚式。僕にとって確実な彼らの記憶は、彼らに生を受けた子供たちにとって一体どういったものなのだろう。それが彼ら自身の記憶ではないにしても、彼ら自身にとってどうでもいい類のものであるはずは決してない。ある人にとって確実なものが、他の人にとって確実でないということが僕には理解できなかった。ましてそれが当人の出生に深くかかわった想いや出来事であるとしたらなおさらだった。そのことが余りにも不条理に思えて、ひょっとしてあの時も甥は生きていたではないかとさえ考えた。ドラマでよく使われる「人は死んでも、残された人の心の中で生き続ける」という台詞は間違っているどころか真実の半分しか捕まえていない言説で、本当はそれに「人は生まれる前から存在している」が加わってようやく真実は完成するのではなかろうか。そうだ、妻姉妹のおばあちゃんのことだって、甥が知らないはずがない。あの家は甥の誕生の三年前までずっとおばあちゃんと生きてきたのだから。そんな途方もないことを考えれば考えるほど混乱して脳が火照り訳がわからなくなって涙がどんどん溢れてきた。かといってそんな僕だって自分の親や、そのまた親たちの記憶についてほとんど何も知りはしないのだ。先週父親から聞いたばかりの、おなかの大きくなった母親と一緒に神宮球場の芝生の上で見た大学野球の話でさえ、僕にとっては曖昧で掴みどころがなく陳腐な嘘としか思えなかった。祖国の建国の理想について知っている以上のことを、僕らが自分たちの直接の祖先について知らないということは、とても情けないことに思えるのだったが、僕らは僕ら自身の記憶の扱いですでに手一杯であることを思い出せば、それもまた無理はないとも思えるのだった。何者かが、あらゆる人々の記憶を留めていなければならない。それはミリ秒単位で書き溜められるサーバー・ログのように詳細で正確である必要もなく、歴史書のように客観的で考証的である必要もない。それはちょうど『パリ、テキサス』の主人公が暗室で回した8ミリフィルムのような、とびっきり主観的な映像の集積であるはずだ。その者が、僕らの記憶と想いを繋いでくれている。