妻が実家に帰省(三日分の食べ物を用意してくれた…)。昼から銀行に行って税金を払い、床屋によって、帰ってからは洗濯、洗い物。夜になってビールを飲みながらいつもと左右の手を変えてピアノ(『時代』、『ぼくらが旅に出る理由』)を弾いていたらアルコールも手伝ってこれまで感じたことがないような身体感覚に陥った。これまで意識したことはなかったが、同じ音楽に関わる部位であっても、メロディーとコードを司る領域は脳内で分かれていて、手を変えて演奏することによってその間の配線の切り替えが行われるみたいだ。それに連動して左右の手の感覚も微妙に入れ替わっている。こうやってタイピングしていても何か手元に違和感があっていつものスピードで打てない。マウスやペンも左手で持ちたくなるようなヘンな感覚だ。頭がおかしくなっても困るのでほどほどにしておこう。
最近、ある本の影響で、ちょっと複雑なことを考えるときには思考過程をノートに綴りながら行う、ということを試している。考察対象をいくつか図に書いて並べて、それぞれの定義を自分で考えてみたり、それぞれの間に成立しうるカテゴリカルな関係を色々と想定してみたり、またその関係に当てはまらない例外を挙げてみたり。こうやって考えていると、脳内の暗闇で言葉をつぶやきながら抽象的に考えるよりも、問題の焦点が絞りやすく、自分が集中して考えるべきポイントが明らかになりやすく、したがって当面のゴールにもより早く到達することができる(気がする)のだが、その分、後から思考経過や結論を振り返ってみるとどれもが元々誰にとっても自明な事柄だったような気がして、あえてここに載せる気も起こってこないのが困ったところだ。ノート上に図示していわば二次元的に了解した内容を、文という一次元的表現に変換する作業が一筋縄ではいかないということも改めて思う。科学の論文でも一通り読んで理解した後、しばらくして参照するのは本文ではなく式や図、一覧の類である場合が多いし(本文なんてまどろっこしくて読み返していられない)、逆に文章表現の花である逆説や反語、皮肉、譬えなどは図では表現しづらいものだ。良心的な科学者がよく、素人に分かりやすく説明できないのは自分がきちんと理解していないからだ、などと言うが、それは自分の専攻への理解が足りないわけではなくて、その理解を口頭での叙述という一次元の形に文字通り次元を落として変換する作業がそもそも容易でないからではないか。逆に人生だの道徳だのを対象とする哲学が例外なく一次元表現で行われているのはなんでだろう、と多少穿った問を立てることもできるかもしれない。