妻と横浜へ。出がけに本棚から小部であるという理由だけで『数学小景』を手にとってカバンに入れ、電車で読み始めたら意外に難渋して辟易した。ケーニヒスベルグの橋の応用問題なのだが、著者にとっては自明な論理展開が自明すぎるがゆえに簡潔に、自分にとっては素っ気ないまでに圧縮されて表現されていて、緩いペースで動く自分の頭になかなか入ってこない。気楽な啓蒙書(実際にそうなのかもしれないが)のつもりで選んだのに情けない、鍛えられてないなぁと嫌になって、レストランや喫茶店でも小二時間ほど格闘してしまった。夕方品川へ友達との飲みに出かけた奥さんを見送る。帰宅後、今度は文字だけの本をすいすい読んでやるぞと、今日本屋で買ってきた本を読み始めた。"Mrs. Dalloway"が採り上げられていている章に差し掛かったとき、今度はこの作品に描かれているだろう孤独と闇の深さを想像してページを繰る手が進まなくなった。悲惨な戦争が終わり、ロンドンに美しい朝が訪れる。"For it was the middle of June. The War was over, except for some one like Mrs. Foxcroft at the Embassy last night eating her heart out because that nice boy was killed and now the old Manor House must go to a cousin; or Lady Bexborough who opened a bazaar, they said, with the telegram in her hand, John, her favourite, killed; but it was over; thank Heaven—over. It was June. " 幸か不幸かその人は生き延びることができた。理解してくれる人がいて愛されてもいたし、愛してもいた。そして何より本人だって必死に努力したのだ。それでも迎えざるを得なかった結末、残された想い、流れ続ける時間…。こんなものを透明な眼といとも流麗な手法、恐るべき才能によって綴りあげたような「文学作品」を、人が読む意味など本当にあるのだろうか。深夜に帰った妻にVirginia Woolfの話をしていたら、ほとんど泣きそうになってしまった。