ちょっと前にNHK-BShiでやっていた『小山田圭吾の中目黒テレビ〜コーネリアス・ワールド・ツアー 2006-2008』
この番組、小山田圭吾Corneliusのワールド・ツアー(オーストラリア、日本、アメリカ、ヨーロッパ)に2年にわたって同行・密着して、ライブの様子とバンドメンバーのオフでの顔を追うドキュメントものなのだが、54分という決して長くもない番組枠の中に優に10を超える会場での観客の反応を律儀に詰め込んでくるものだから、一曲に充てられる時間がその分減ってしまって、食い足りなさが半端じゃなかった。イントロ20秒だけやって途中はまるごとカット、曲のラストと歓声に10秒ずつとかそんなのばっか。ネットで全曲版を探してきて改めて聴いてみる。

このところのCorneliusの作品は、小山田圭吾の音楽と辻川幸一郎という映像作家が作った映像とのsychronizationに照準を合わせたものが主体になっているらしい。ライブでのパフォーマンスも、スクリーンに映写される既撮のビデオを前にバンドが生で演奏するという形をとっている。音と映像の同期化は、ビデオに埋め込まれたクリック音を聴いたドラマーによって主導されているという話だった。なるほど、この二人の作家の芸術的相性が良好なことは、音と映像が心地よく融合したイントロを聴くだけでもすぐにわかる。一見ライブに合わなさそうな素材ではあるが、艶のあるエレキギターの音がホールに飛び散っていくさまが躍動感を生んでいてそれもまた良い。特に"Point of View Point"は両者のcoalescenceが際立った傑作だと思う。シンバルの金属音を強調したドラム、人間の声をサンプリングしたシンセサイザーによる簡素かつ緻密な伴奏に重ねて"left right point of view"という文節が延々と呟かれる『音楽』。ビデオの早送りによって、ターミナル駅を行き交う通勤者と昆虫の群れの時間軸を一致させ、首都高速の車をケーブルを流れる電子のように走らせる『映像』。どちらが前景でどちらが背景と言えないほど見事に重ね合わさったこのクリップから立ち上がっている独特の無機的な抒情は、ある程度都市化した国の人間にとって等しくappealingなものではあるだろう。"Wataridori"では、スクリーンに影絵のように投射された渡り鳥が正確なビートを刻む電子音(ライブではエレキギター)の高低に合わせて東京と思われる街を渡っていく。幻燈の雰囲気と電子音楽の高揚感を併せ持つこの静かな疾走感もまた独特だ。実際、番組がしつこいくらいに繰り返していたようにCorneliusの評価は国内外を問わずすこぶる高いようだった。ただし、会場の観客の反応の仕方を見ていると明らかな受け止め方の違いがあるようで、個人的にはそこに興味をひかれた。"Amazing!", "Factastic!"と、まあ歓声と絶賛の嵐な向こうの客に比べて、こっちの客は集中して「鑑賞」している様子。当然国民性からくるノリの差も会場の熱気の温度差に寄与しているはずだが、彼此での反応の違いにはそれ以外にも何か要因があるのではないかと思ったのだ。たとえば日本人にとってこの手の作品がすでに新しいものではないということなどが?小山田圭吾Corneliusはもちろん日本でも高名だが、この作品を見て"Jaw Dropping"なほどの衝撃、斬新さを感じる人は実際それほど多くはないだろう。乱暴に言ってしまえばこの作品から醸し出されるイメージは、僕らにとって既にある原風景の快い反復のようなものに過ぎない。欧米の観客が、戦後資本主義最大の実験地からやって来たボーダーシャツの4人組にある種黙示的なメッセージを感受しているのだとしたら、それを意味のあるメッセージとして受け止めるには僕らはこの手の時代イメージを深くそして曖昧に受け入れ過ぎてしまっている。10年以上も前にこの社会はこの黙示的世界の開闢の前線に立っていた(1987年横浜西口、ゲームセンター、ワンルームマンションで見た深夜のイメージビデオ)。しかもそれが何らかの文明史的使命感や国家的大計に導かれたものでなかったということが、僕らのこの時代へのコミットメントを想像的・記号的つまり鑑賞的なものに留めている。資本的文物をほぼ無前提的に消化できる吸収力は、経済発展は言うまでもなく、Corneliusのような優れた表現者を生む稀有の土壌となった。その一方で、変貌する社会をほとんど花鳥風月のごときものとして鑑賞してしまう受動性は、権威主義に誘われる危険性を常に孕んでいると僕は思う。資本主義は【生産=消費】の両輪に駆られて回る。そこではそこに住まう人間の多くもその両輪の狭間で役割を変えつつ(【労働者=消費者】)生きるしかない。この役割のどちらに重きを置くかは各人の【能動性=受動性】に如何にかかってくる。己の生産活動に(嘘でも)時代的使命なり社会的意味を見出していく態度を資本主義社会における【能動性】と呼ぶとすると、そうすることのできない受動的人間は消費のうちに自己表現の契機を探るようになる。そもそも己に所属しないもの、自らを出自としないものを表現手段にするのだから、その物はある程度以上権威的なものである必要があるだろう(あのカバンを持っている、あの車に乗っている、あの音楽を聴いている、あの本を読んだ…)。受動性は消費を媒介にして権威主義と親しむ。この性向は意識するとせざるとにかかわらず、消費者としての僕らのあり方に深く根をおろしている。そういえばこの番組自体にある種のもきな臭さが漂っていたのだった。音楽そのもの聴かせるよりも外人の歓声・喝采を重視した時間編成("Amazing!", "Factastic!"は本当に最初の会場だけで良かった)、各会場を紹介する際に繰り返される「誰それも演奏した由緒ある会場で…」のフレーズ、海外メディアや外人アーティストとの交流の執拗な紹介。表題「中目黒」の使われ方だっていかにも象徴的だった。なんせ番組中、中目黒なんて場所は冒頭の数秒にしか出てこないのだから。そして2年間カメラを向けられ続けながらオモロイことを一言も発しなかったバンドメンバー…。Corneliusの作品が国際的でオシャレで心地よいことは確かだ。そのmaterialisticな音楽は、商品どころかもはやinfrastructureにまで身を堕とした現代人の悲しみを歌っている。ただこのような作品が生まれ受容される裏側にある諦観、受動性のようなものが僕には気になるのだ。脆くても自らのストーリーを語ろうとした小沢健二のほうに僕は心を惹かれる。