「N君はどうしよう?やっぱ言っといたほうがいいかな」
「言ったほうがええんちゃう。個人的にやけど、私はN君にはむしろちゃんと言ってほしいで」
彼のことを思い出したときにまず、この頃こっちの事業所に顔を見せてないみたいだけど、はたして彼はまだ会社にいるのだろうか、という疑問が浮かんだ。これはつまり、彼が僕に何も告げずに去っていくのを僕はごく自然なことと感じているということだな。だとしたら僕も彼の生きる圏域への敬意を払いつつ静かに去っていくべきではないだろうか…。5年前、狭い車道を走る車のヘッドライトに流されるように辿り着いた渋谷の喫茶店で時間をつぶしていたことも、田園都市線の終電で帰ってきて、寝ずに待っていた妻の前で本当に信じられないくらい泣いたことも僕は覚えていたけれど、ひとしきり泣き終わった後、「でも会社にはこんな奴もくるみたいだから」とその日あった出会いについて話したことは久しく忘れていたようだった。夕方にミーティングが終わってチャットで話しかけると、今日はたまたまそっちに行く用があるから顔見せてよと、最寄り駅まですぐに駆けつけてくれた(本当は上司にウソの予定を言って抜け出してきたみたいだった)。あの日いた○○は子供ができて家まで買ったらしい、営業にいった宇多田ヒカル似の女の子はmental breakdownで1年休んだ後復帰して、今はハゲおやじと付き合ってる…。実際は顔をつき合わせて話した回数は十指に満たないくらいの仲なのに、煙草を山ほど吸いながらいつもの小声で近況を話す様子は十分リラックスして見えたし、こっちも同じようにリラックスして今感じている達成感やある種の挫折感などを素直に表現することができたと思う。入社当時の彼女とはもう別れて別の女性と結婚したことや、アフリカの孤島への新婚旅行の話は新鮮だった。どこが本流なのかも分からない流れから逸れそうに感じながら前みたいに喫茶店の端で体を丸くして蹲るように座っていてもやはり昔とは何かもかもが少しずつ違っていて、地元の地名とか人の名前とか、変わらないものの名前を一つずつ挙げながらその形を確かめるように言葉を交わしていた。僕は思うのだけど、親しく会話する人間の間を取りもっているのは、当人たちが伝えたいと思っている出来事や心境の意味内容よりも、向かい合う相手の中へ投げ込まれる現前性とそれを受け止めようとする志向性なのではないだろうか。英語で歌われる歌の歌詞のように、人の交わりにとって言葉はなくてはならないものだけど、本当に僕らが耳を傾けているのは音の震えとして伝わる人の声やメロディーであるように。「意外に我慢強い自分に失望するよ」と言うほど仕事に浸されている現状を自嘲する彼は、それでも寝付かれない平日の夜にタクシーを拾って六本木の本屋を徘徊するfreewheelingnessを変わらずに宿していて、僕はそんな彼の魂の生態にずっと惹かれていたのだった。心の中に投影されてくる他人の現前性を自己のreflection(他己像)として受け取ることによって、人は自分の変わらない固有性を確認する。それ以外に ≪Qui suis je?≫ (A. Breton) に答える術はないのではないか?空腹と疲労で体は休みを欲しているのに、感傷と興奮がないまぜになって寝られそうにない。今日はずっと夜更かししていたい。