先週は三日間東京の勤務。二日目はちょうど出勤時間が重なった奥さんと川崎まで一緒に、三日目は勝手についてきた彼女と新橋まで一緒に通勤した。帰りも横浜のスタバで本を読んで時間をつぶしながら無理やり待ち合わせたり、客先なのを良いことにさっさと切り上げて友達と遊んでいた彼女と有楽町で合流して、まだ明るいうちからしゃぶしゃぶに連れて行ってもらったり。通勤列車は相変わらず屈辱的で、密着した人間同士が感情の回路を切って小一時間息を詰めることを強いられる状況はそのまま会社労働へのソフトなコントロールかとも思える(鉄道に飛び込むというのも、手段としての即効性というよりは一種の無理心中なのだろう)。職場の喫煙所ではサラリーマンがサラリーマンに威張っている光景。車輪とレールの鉄が軋む音がビルに反響しながら駅のホームを包んでいた。JRの新型車両の発車音は、"Sloop John B"のイントロと同じ音。
「あなたの日記を読んでると泣きそうになることがある。本当は悲しいの?」
文章を書き始めるとどうして決まって同じトーンに落ち込んでしまうのか自分でもよく分からない。とにかく、僕は内的にはほとんど悲しくなんてないし、それに大して怒ってもいない。「あー今日は疲れた」と言いながら帰ってきてテレビをつければ、その五分後にはFUJIWARAのスベリ芸にも手放しで爆笑しているそのままの人間。
この社会がどんな危うさを内包していたとしても、それが僕たちにとってどんな逆境として現れてくるとしても、それらは他の人たちにとっても同じ逆境として現れるとは限らないから端から義憤を気取ってみせる必要はない。そもそも今のところ全て逆手にとってこれだけ楽しめている訳だから、本当は怒ってさえいないのだろう。

それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
『羊の歌』中原中也

感じ得ないことのために罰せられる。もちろん「罰せされる」というのは詩人が自分に対して課す戒めの言葉だ。なぜならここで歌を捧げられているものたちはもうとてもそんな罰するような気持ちでいられるはずはないではないか。これまでずっと自分を探してくれた人がようやく自分たちを見つけ出してくれた。仰向けになった晩年の詩人はもう皆と和解している。春の日の夕暮れのような穏やかな光が最期の寝床を包むだろう。そこに悲しみの粒子が漂っているとしたら、それは人が死ぬ時になってようやく見つけてもらえるものたちの悲しみであるに違いないのだ。