一年ぶりの休日出勤。システム構築の契約下に入った大銀行とIT企業の関係は、ミーティングの席が完全に打ち合わせの余地を奪われて、実質ただ客の命令を拝受するだけの場所になるほどのものだそうで、どう考えても無理線の日曜日という期限に間に合わせるために部門中から20名近いエンジニアがかき集められてテストの検証に動員された。もっともこんなことはより客に近い現場での作業を請け負っている部門にとっては日常茶飯事のことらしい。遅れを挽回するにも良案が浮かばず策に窮したまま、とにかく休日に部下の顔をそろえさせて誠意だけでも示すという、言わば人身供与によって逃げのびることを覚え、それを常道化している上司がいるという話もちょくちょく耳にする。それに比べれば、自分がまだほとんど心を許していない今のマネージャーは、あくまで休日出勤を「お願いする」という低姿勢だったし(彼は最近顔色がずっとおかしい。すごいストレスなのだろう)、昼も夕方もえっちらおっちら買出しにでて弁当を大量に抱えて帰ってきたり、自分の自動販売機用のドリンク・カードを皆に使わせたりしていて、大分出来ている印象だった。結局そこには義理立てにされた権力が働いていて、自分もそういう温和な圧力を感じたからこそ出勤したのだけど、同じ働くにしても「自分は働かなくても良い状況にもかかわらず自分の自由意志にしたがって働くのだ」という選択の余地が仮想的にでも与えられているいないかの違いは、尊厳の維持にとっては大きい。今日周りの人々の仕事ぶりを観察していて、皆からうっすらとマネージャーへの奉仕の精神が垣間見えたような気がした。無策な上司の下での強制労働によって愚鈍化していくよりははるかにマシな精神状態に違いない。別にこういう話をしたからといって、自分の会社は恵まれてるぜ、みたいな自慢をしたいわけではない。上司といえども部下の私生活や内面までは立ち入らせないという風土(これも部署単位では怪しいところもあると聞く)や社員の自律の気風を、現代日本社会にあってはまだましと思われるレベルに維持している前提について考えていくことは、意味のあることではないかということに気づいたということだ。外国資本による倫理上の影響、テクノロジーへのマニア的な沈潜による自我の下支え等がすぐに思い浮かぶけど、外資の会社といえども日本をのみ尽くす代替可能化・流動化の波からはフリーではないわけで、統合的に理解するのは容易な仕事ではないだろう。
今週2ちゃんねるをのぞいていてこんな書き込みを見つけた。特に印象に残ったものを引用すると、

「格差なんていつの時代でもある。じゃあ朝日新聞の給料はいくらなんですかと言ったら終わっちゃう話なんだよ」
  (安倍晋三  第90代内閣総理大臣 世襲3世)
「パートタイマーと無職のどちらがいいか、ということ」
  (宮内義彦  オリックス会長 元規制改革・民間開放推進会議議長)
「格差論は甘えです」
  (奥谷禮子  人材派遣会社ザ・アール社長 日本郵政株式会社社外取締役 アムウェイ諮問委員)
「格差は能力の差」
  (篠原欣子  人材派遣会社テンプスタッフ社長)

直接発言の現場を目にしたわけではないから真偽のほどは分からないけど、この手の現状追認の「本音」を言い放って快感を得るという構図は、公の場での発言を好む彼らの性格を考えるとありそうなことだと思う。彼らの発言に含まれる挑発性を分析してみると、それらは記述的(descriptive)文言の中に規範性(normative)が織り交ざった様態に依拠していることがわかる。「格差なんていつの時代でもある」、「朝日新聞の給料は高い」というのは記述的だが、「それで話が終わる」という末尾の文節には、「時代の変化に伴う格差の拡大・縮小については考慮する必要がない」、「高い給料を貰っているくせに格差社会を問題化するべきではない(そんなのは偽善だ)」という規範性が意味的に縮約されている。宮内発言はもっとひどくて、規制改革の名の下に企業の非正規雇用化を推進するこの老いぼれが提示してみせる「パートタイマーと無職のどちらがいいか」 という二択には「当該層には正規雇用の選択肢を与えるべきではない」という規範性がどす黒く息づいている。二女史の発言についてはもう言及するまでもないだろう。面々の顔を思い浮かべてみるといかにもという連中ばかりだから、今さら驚くに値しないことなのかもしれない。公的な地位にある彼らの偽悪的な言動を制御するための公共的良心をこの社会がすでに喪失しているということはそれでも看過できない重大な問題だとは思うけれど。ただそれにもまして僕が暗澹とした気持ちになるのは、彼らの発言が公的な地位にない人間に及ぼすであろう影響の大きさについて憂慮さぜるをえないからだ。これらの暴論は、ある意味では自身が統括する業界の権益拡大を目論んだ政治的発言である。このことを忘れて発言者の権威を帯びた言説の記述性だけを鵜呑みにすると、誤った認識が次第に内面化されていくという事態が生じる。現在の地位に満足している人間は、自分の能力・努力によってこの地位を得たのだと感じるようになる(失敗した人間は努力をしなかったから仕方ないと考えるようになる)。そうでない人間は、苦境を全面的に自己存在の内に事後的に起因させていく。僕はもう何人もそういうことを言う人間を見てきた。これまで一生懸命生きてきたという自負を持つことは自己意識を維持するためには必要なことだ。ただそれは存在の処世(being in the world)として行うのであって、それを外側に向けて価値化していくというのは、これはもう大変な倒錯だ。家をなくした人間に対して「私はあなたより一生懸命生きています」と事実認識として言い切れる人間がどれだけいるだろう。或いは受験のために数学の問題集を解いていた自分が、夜に怯えて成す術無くベッドの中で苦悶していた自分よりも価値ある存在であったと言い切れる人間が。そう断言できる人間が多勢になった時、本当にこの社会(Leviathan)は未だ水中に隠している恐ろしい素顔を公然と擡げて生まれ変わるだろう。この予感が僕をただただ心の底から恐れさせる。