ビッシリ日記

職場の仲良くしていた同僚がまた一人辞めてしまうらしい。今のセンターに移ってからそうしていなくなっていくのはもう何人になるだろう。絵描きを目指していた彼、中学卒業と同時にニューヨークへ渡ったゲイの彼、密売に手を染めていた彼、プロの音楽家になった彼、そしてサウンド・クリエーターのパートナーと二人で暮らしていた50才の彼女…。彼女が仲良しになるのはきまってそんな一風変わった粋人なのだけど、そんな彼らはもう誰も残っていない。居座っているのはうだつの上がらないオタクや骨の髄までリーマン気質の上司ばかりとくると、会社にいることが「取り残された」ような感覚に襲われることがあるというのもなんだかとても分かる気がする。通勤時間は比較的短い、残業もない、なによりミラー・ニューロンの異常に発達した彼女の特性を考えると、CD-ROMの表と裏もわからないおじいちゃんやおばあちゃん達に文字通り本当に彼らの身になりながらセキュリティーやバックアップの仕組みを教えていくという今の仕事を、給料のことなんか考えずに続けていくことはとても意味のあることだとは思うけど(ぼくはいつもあのご老人譚を楽しんでいる、しかしあの会社のことは僕は随分嫌いになった)、それでも「やめ時」が来たと思ったら、その自分の感覚を信じることがなによりも大切だと思う。僕がそろそろ自分の会社を(というよりもリーマン生活を)退こうとしているのが影響してるのだろうか。
いくら一心同体のように暮らしていても2人の人間の軌跡はあくまで重なり合うことのない平行線を描いていかなければならない。そんな倫理は2人はとうに分かっているのだけど。一方の軌跡が遭遇した悲しみや不安から、あまりにも密接な別の弧にperturbationが伝わる、軌道を乱す。
先日ネット上に奇妙な日記を見つけた。僕はこの二三日、もうなんだか分からないくらい引き込まれて、家でも会社でもずっとその日記を読んでいた。もし僕がこれまでの出会いをして来なかったら今もこんな苦闘を続けていたのではないか。もしかしたら高校時代の友人は今でもぼくがそんな世界にいると思っているのではないか。そう考えると消化器官の神経に痛みが鋭く走った。ぼくなんかの十倍のスケールで、十代のときから十年以上続けてきたであろう闘いの拡大された似姿。初めてそのページのことを話した時から、「怖い」と僕に警告を発した彼女はいつものように慧眼だった。今日の午後から気分が悪くなり始め煙草を何本吸っても足りない状態になっていた。
もう今から読むのはやめる。あまりにも不実な言い方だが、肯定的な刺激は十分に受けた。なにも逆向きに巻き込まれる必要は全くないのだ。

理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない、それは何かしらもっと大変難しい事だ、とゴッホは吃り吃り言う。これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。ある普遍的なものが、彼を脅迫しているのであって、告白すべきある個性的なものが問題だった事はない。或る恐ろしい巨きなものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語るのである。だが、これも亦彼独特のやり方という様なものではない。誰もそういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである。現実という石の壁に頭をぶつけて了った人間に、どうしてあれこれの理想という様なものが必要であろうか。「それは、深い真面目な愛だ」と彼が言うのは、愛の説教に関する失格者としてである。(小林秀雄ゴッホの手紙』)

僕は愉快に上昇の基線を描きながら、世界に貫かれる巨きな似姿のことを祈る。