泥棒日記 (新潮文庫) イビサ (講談社文庫)
20世紀のフランスの作家ジャン・ジュネが書いた『泥棒日記』は、読む者をただただ圧倒し衝撃の余波の中で唖然とさせてやまない小説だ。初めて、このランブラス大通りの裏道から始まる醜悪、豪奢な燦然たる汚辱の大ロマンを読んだとき、このような世界は娼婦の私生児で感化院で大人になり父親がいなくフランス語を喋り約束を全て破り裏切りを至高の美徳としホモなくせにパレスチナ解放運動に共鳴した異形の変態作家にしか書けないものだし、理解もできないものだと思っていた。その考えが、同じくランブラス通りを破滅への終局に据えた『イビサ』を読んで変わった。例えば、マチコがレズ仲間のラフォンスとモロッコのタンジールに降り立つ、この小説では珍しく性描写のほとんどないシーケンスを見てみよう。

… わたしは昔映画で観た『アラビアのロレンス』のようにえんえと砂漠が続いて道もなくラクダのキャラバンがオアシスを求めて歩くところを想像していたのだが、街に向かうタクシーの道はちゃんと舗装してありなだらかな起伏の丘には南仏でも見たオリーブの木が繁りラクダはどこにも見えなかった。ラフォンスがホテルの名前を言って、ウイ、と返事したきり何も喋らない運転手から強烈な腋臭が鼻を刺しそれが気付け薬のようにわたしを覚醒させて羊の群れと二度すれ違ったあとにどう形容しても言い当てることができないようなタンジールの町並みが見えてきた。漆黒の肌に今時わたしの田舎の父親も着ないような色のスーツを着ている人、白人なのに光沢のある布地で頭をまとめ民族衣装をまとっている人、黒い髪と青い目と褐色の肌の少年、黒く透き通ったショールで頭を隠した女達、白い壁、ピンクの屋根、イエローの看板、赤く皮を剥がしたヒツジを背負って笑いながら自転車に乗る半裸の老人、アラビア語ショールームにおいてある埃を被ったホンダシビック、皮膚病にかかった犬が喉をうるおす噴水、そのまわりを自転車やオートバイやオート三輪やトラックやタクシーがグルグルと回り自転車には濃いヒゲを生やした大男が二人乗っていてオートバイにはこれ以上は太れないというほど太った赤い顔の女がミントの葉を山のように抱えてまたがりオート三輪には卵が積まれてそのうちの一個が落ちて割れそれを灰色の猫が舐めているうちにトラックにひかれて卵の黄身と見分けがつかなくなりタクシーの中には七人も八人も乗客が詰まって、ゆるやかな坂を上りきったあたりに遺跡のある高台があり、海が見えて中世の大砲がまるで大型の包茎ペニスのように黒々とユーモラスな色ツヤと丸みのある筒を晒して並び、ボルボメルセデスの観光バスは乗降扉からそばかすだらけのアメリカ人ツーリストを排気管から黒煙をラジエター・パイプから蒸気をそれぞれ気怠そうに吐き出し、絵葉書売りと土産物売りとサンダル売りと日傘売りと水着売りと新聞売りと煙草売りがそばかすを取り囲み、ゴーストバスターズのように背中に真鍮製のミントティ・メイカーを背負ったミントティ屋が乾いた道路の敷石に香りと共にミントティをこぼし、ハトよりももっと鋭いくちばしを持つ鳥の大群が空の彼方で舞って、その影が街全体に黒の水玉模様を走らせそれをながめるわたしが一瞬めまいを覚えた時に、ベンツのタクシーはホテルに到着した。

これと等質の描写が一人の日本人女の性と精神と生命の記憶を巡って250ページを埋めていく。そこに「解釈」や「癒し」の挿話が入る場所はない。常人のリミッター域の遙か上方で唸りをあげる想像力にとっては、フロイトの緻密な分析理論ですら演歌のごとき痴話に過ぎないだろう。そしてまさに衝撃というしかないラストへ…。
これを書いた作家は日本人でホモでも犯罪者でもない。高校教師の両親を持ち麻薬やLSDの経験があるとはいっても実はかじっただけで、普段はメールマガジンから経済・社会への気のないコメントを発表し、実際に合った人間には「とにかく、気さくで、ソフト」と評されるただのエロ作家なのである。ここに「読者に勇気を与える」と言われるこの作家の秘密がある。以下にあとがきから二つ引用する。

『自分は何者か?などと問うてはいけない。自分の中にはまったく何もないからだ。』
『これを書く時は、脳にフルパワーをかけ、針がレッドゾーンに入ってもパワーをゆるめず、ターボ・チャージャーも使った。』

想像力は私たちの意志の内にある。それはチャージされることで薄暗く湿ったエディプスの小部屋をすり抜けていくだろう。それがどんなに遠くへ私たちを連れて行くように見えてもマチコのような破滅が待っていると考えて怯えなくても良い。だってこの本の作者は如才なくちゃっかりと日常を過ごしているではないか。どこでも意志のあるところに、着地する地面はあるのだ。