春休み。終業式の次の日に、息子は年中さんから着るようになる制服をもらってきた。丈の明らかに長い裾を折って折って無理やり試着すると、一年前の入園式で見た年中さんの姿になる。その時にようやく、年中になる子を幼稚園に送っていた去年の親たちの気持ちが分かってくるような気がしてくる。去年は入園の落差を呑み込むのに精一杯で、そんなことは思いもしなかった。不釣り合いに大きい帽子をかぶると、目の下まで落ちて虫取り網で捕まったかのようである。その様子を見て、いろいろあったけど、一年あっという間だったよね、と妻と無意味な会話をしていると、「○君は長かったよ、あっという間じゃなかったよ」と息子が言った。そりゃそうだ。生まれてまだ四年、記憶のある期間だけならおそらくまだ二年しか経っていないんだもの。四十年生きた人間からすれば十年とか二十年に相当する長さなんだから、あっという間では困る。
自分たちの世代にとって一年は、これからも短くなるだけのものなんだろうか。毎年毎年、地層のような分厚い時間を積み重ねていく子どもに対して、うちらにとって時間はどんどん速さを増して風のように死まで吹き過ぎていくのだろうか。ユングだか誰だかが、中年期は人生の正午、だとか言っていて、それによるとこれまで誕生から辿って考えられていた時間イメージが、人生の後半期に入ってからのある時点で反転して、死を起点としたものに切り替わるのだそうだ。そうなると、自分が想定した寿命に近づくにつれ、一年や一日の進みは逆に遅くなっていくらしい。そうなったときの、幼年期とはまた異なる時間の厚みについては今のところ知る由もないけど、死がまだ遠いものだと思えるが故に時間の進みが最も疾いこの時期には、それなりの花と言えるものがないとも言えない気がする。