月が変わって、息子が幼稚園で作ってきたカレンダーも入れ替わった。男の子らしく(下ネタです)タワーに熱中している彼の自作のコレクションも部屋に溢れてきた。東京スカイツリー、東京タワー、CNタワー、オスタンキノタワー、ツインアーチ138ピサの斜塔。ファイルに収められた画像まで含めると、ぱっと思いつくだけでも、横浜マリンタワー、いわきマリンタワー別府タワー、ブルジュハリファ、松島タワー、エキスポタワー、福岡タワー、びわ湖タワー、京都タワー通天閣法隆寺五重塔、東寺五重塔、法勝寺八角九重塔と「数え切れないくらい」ある。中でもどれが一番好きか、と訊くと、やはり三月に従兄と行った東京スカイツリーなのだそうだ。子どもの興味はどこで火が着くか分からない、という意味では、きっかけを呉れた妻の妹さんに感謝したい気持ち。同時に、日に日に高くなっていく建設現場をメディアが追っているときは割と白けて見ていたスカイツリーにも、息子の誕生と相前後して着工し、ハイハイから立ち上がるようにして高さを増して、震災の揺れにも耐え、と思うと、息子の同期生に対するような親近感を覚えてしまう。スカイツリーに限らず、電車も、チャギントンも、ABBAの"Does Your Mother Know"も、獣電戦隊キョウリュウジャーも、大人の世界を広げてくれる子どもからの贈り物というべきもので、その箱の中にはこれらを作り上げてきた社会への驚嘆や、製作者への敬意の仕方が入っていたことを思うと、信頼の一心でこれを手渡して来る子ども世代への責任の取り方、ということについて考えさせられる。子どもたちの信頼の本質は何か。発展と荒廃、変化と硬直が嵐のように行き交う娑婆の世界で、子どもたちの期待の地平から僕たちが絶対に手放してはいけないものは何か。いかにして来るべき未知なるモノたちを肯定すれば良いか。時代の分析、体制への批判の枠組みは時とともに古びて行く。それらが吹き飛んだ後に残る幸福の条件、生命としての人間を保つ最後の核種。

シューホフは帽子を脱いで、膝の上においた。スプーンで一つの皿の中身をたしかめ、次に二皿目もたしかめた。まあ、悪くはない。魚も入っている。ふつう、晩飯の野菜汁は朝のときよりもだいぶ薄いのが相場だ。朝は囚人たちを働かせるために食わせるわけだが、晩はそのままでも眠ってしまう。
シューホフは食べはじめた。先ず、一皿の汁を息もつかずに飲んでしまう。熱いものが喉を伝って体内に入っていくと、胃の腑は野菜汁を歓迎して、思わずふるえだす。うむ、うまい!いや、ほかならぬこの一っ時のために、囚人たちは生きているのだ!
今やシューホフはどんな事に対しても腹をたてていない。長い刑期に対しても、長い労働の一日に対しても、いや、日曜日がまたつぶれるということに対しても。彼が考えることはただひとつ。耐えぬこう!神さまの思召しですべてが終わりを告げるときまで、耐えぬこう!
イワン・デニーソヴィチの一日』 / ソルジェニーツィン