先週、妻の妹から引越し祝いの品が送られてきた。清潔感のある五枚組の白いランチプレートで、彼女やお母さんが家で使っているのと同じものだそうだ。届いたその日に妻は早速仕切りの数に合わせた惣菜とおかずを作ってくれた。洗う皿の量を少なくして、忙しい家事の手間をなるべく減らそうという妹の配慮を妻は心から喜んでいた。
世間の妹たちが姉とどういう関係で向かい合っているのか一般的なことは分からないが、先月の滞在中に彼女が妻のためにやってくれた事の数々には改めて目を見開かせるものがあった。到着翌日の朝から、重い電子レンジを使い勝手の良い位置に移動し、水屋の引き出しを漁って有効期限の切れた薬や、姉が使っていないと分かる小物を処分し、台所での動線を考慮して食器の並びを大胆に変えた。自分が出かけた帰りがけに、100円ショップに寄って、クローゼット用のハンガー、洗面所のタオル掛けや、洗面台を洗うタワシ(これはお母さんが作ってくれたもの)を引っ掛けるフックを買ってきて鏡に取り付けた。東京まで出かけた日も、家に着くと休む間もなく妻と一緒に台所に入って、夕食の支度。食後はてきぱきと皿洗い、後片付け。
「あの子を見たら私もまだまだやと思い知らされた」と妻も舌を巻く仕事ぶりだったが、そういう妻も実家に帰った一週間は、暇があるとすぐに立ち上がって畳の掃除機がけ、床と階段の雑巾がけ、風呂掃除、トイレ掃除と動き回っていた。そして自分がした家事について、結局お母さんには一言も言わずに帰ってきた。それは、普段から妹がお母さんには何も言わずに実家の家事をしているから。以前はお母さんの自助を促す意味でも「掃除しといたで」と言い残していたのだが、最近になって、家事には気が回らなくなってきたけど一人暮らしでマラソンや登山に頑張っているお母さんの銃後の支えに徹することに方針を切り替えたのだそうだ。それで妻もその方針に従った。彼女は冷蔵庫の下に張った虫の巣まできれいにしてくれているらしい。
自己犠牲の押しつけもなく、億劫さも感じさせずに人のために手際良く動くこの姉妹の所作は潔く爽快で、外から見ていると簡素な様式美のようなものを感じる。勤勉といっても、禁欲や良心と結びついた宗教的奉仕というよりは、愛する人のために己を無化してfacilitatorに徹するという、他者への水平的な関与。もちろん彼女たちも人間で、付き合いも長いから、現代人としての迷いや不安を相応に抱えていることは知っているけど、答えの無い沼地をのぞき込むよりは、颯爽と動いてしがらみ自体を摩耗させるというのが、彼女らなりの処世術(being in the world)なのかもしれないと思う。顰めっ面した大人が暑苦しい護摩や滝行、瞑想や断食によって達しようとしている境地へのアクセス法を彼女らは知っている、とまあこんなことを言ったら、また「貧乏性なだけやし」と言って笑われるんだろうなあ。