良い正月だった。仕事から完全に離れて羽を伸ばすのは、沖縄で過ごした夏以来半年ぶりだった。まして去年の正月はあって無かったようなものだからと嘯いて十日間思うように過ごした。好きな時に酒を飲み、煙草を吸い、気が向けば息子と遊んだり、散歩に出かけたり。友達に会いに町へ出たり、急遽人を家に招いたりもした。目の前に出された御節料理を啄みながら、何かの特権を行使するような感覚で気ままに過ごすことを休みの最終日になるまで何の疑問にも思わなかった。今日になってようやく、その全てが妻に負んぶに抱っこの体たらくだったと気づいた。帳尻合わせのようにお礼を言うと、妻は「ありがとう。でも男の人はそれでいい」と。
元日にたまたま見た『ニッポンのジレンマ』という番組。就職を前にした若者の前で、三十代の論客たちが議論を戦わせていた。テーマは「格差を越えて 僕らの新たな働き方」。多人数参加型のこういう討論番組は普段あまり見ることはない。次々に提示される論点が整理されず宙に浮いたままになることにストレスが溜まるし、一事をなし遂げたパネリストが己の生き方を汎用的な模範例として若者にアドバイスを送る、というスタイルにも違和感を覚える。人の生き方を、(個々の生得的な環境)+(後天的な意志決定の連続)という単純モデルで捉えたとき、この国の平等意識(或いは悪平等の無意識)は、成功者に自身の恵まれた生得環境を語ることを許していない。だから人前で生き方を披露する人間は必ずと言って良いほど、相対的に恵まれていたスタートラインを隠したまま、自身の華麗な決断や、常識に囚われない価値観を語ることになるのだが、これは非常に重大だ。なぜなら聞き手は、生き方や働き方といった問題は結局意志決定の問題なのだという誤ったメッセージを受けとる恐れがあるからだ。人間は、人には言いにくい内因的な弱みを抱えている時にこそ、対処の仕方を求めて、人からのアドバイスを受けとろうとするものだ。その状況で、人生に訪れる成功も失敗も全て主意的な行動の帰結なのだという誤ったメッセージを受けとれば、現状からの何らかの脱却を望む聞き手は置き去りにされるしかない。そう考えると、失われた十年に生まれた「自己責任」という言葉ほど、レジームの維持に貢献した概念装置はなかった。守旧派、改革派を問わず、現体制の全ての階層が下の階層を見て現状を追認するとき、この言葉ほど強く、平等概念と相反しない形で自身を肯定してくれる論理はないからだ。結局「格差」や「働き方」という問題を個別性のみによって過不足なく捉えることはできない。地道にシステム論を突き詰めるしかないということ。
そんな中、印象に残った「この世は、もはや(民主主義を通した)体制内改革には期待できない末法の世なのだ。外に自分たちの手で幕府を作るしかない(宇野常寛)」という発言。正月を偉そうに過ごした男として僕にどんな幕府が立てられるのか。