10年ぶりの長時間と言われる皆既月食が始まる一時間前に日記を書いている。今回のお義母さんの訪問は、これといった出来事があったわけでもないのに、やはりまた思い出深いものになった。近所への散歩、横浜への買い物、動物園等で過ごした何気ない時間を、思い出に残そうとして惜しむように味わってくれたお義母さんの心持ちがこちらにも伝わったからだと思う。母親に対して思うところが無くはないにしても(そうでない大人がどこにいるだろう)、それを想像力の内に深く抱き込んで、そこから湧きあがって来る感謝と愛情を素直に表現していた妻の姿を見て、また一つ彼女という人間の奥行きを見させてもらった気もした。二週間ぶりの動物園は、息子にとって二週間前とはまた別の世界として映っているようだった。平日の人もまばらな園内でアシカの水槽前の場所を確保した僕らは、アシカが水に飛び込むシーンを独占的に息子に見せられることに気を良くしていたのだけど、息子は目の前を身を捩りながらガラスすれすれに泳いでいくアシカの迫力よりも、アシカが水面に残した泡の粒や、飛行機雲のように尾を引く水中の白い筋が気になっていたようで、それらが消えていく束の間に目を凝らしていた。忙しく動き回る子どもの視線が、ふと何かに吸い寄せられてそこに留まる時、僕らは時間が静止したような息苦しさを感じてハッとなる。僕らはその静止に耐えられないのですぐに言葉を発したり、カメラを構えたりするけれど、子どもはその間もじっとその瞬間に留まっている。ピカソはいつか子どものように絵を描きたいと言ったそうだが、本当の子どもは絵を描く必要すらないのかもしれない。