今日は休みを取って妻と横浜へ行った。全休を取ること自体が正月以来だから僕にとってはちょっとした出来事だった。横浜では、前々日が誕生日だった妻を祝って食事をした。食事の席で少々まじめなことを話す。多かれ少なかれ今は皆同じだとは思うが、気分が落ち込んだ時など、3・11以前に時計の針を戻したいなどという女々しいことを考えてくよくよして、こんな時代に生まれた息子や同世代の子どもたちが迎える将来が不安になり、テレビから流れるちょっとしたBGMにも涙ぐんでしまうようなことが度々起こる。僕の場合それがたまに飛躍して、この世に生まれた以上息子の運命は彼自身が引き受けるしかないにしても、彼が何らかの危機を迎えてシグナルを送ってきたときに、自分は親として十分に応えられるのかという問いとして跳ね返ってきて身動きが取れなくなり、深夜に一人何時間もぼぉーっとカーテンを見つめているような茫然自失に至ってしまうことが少なくない。自分の責任の輪郭を追求すればするほど、思いつく方策の悉くが空々しく感じられ虚しさに打ちのめされる感覚。けれどもそうでもしなければ親としての自分の存在意義が失われてしまうように感じて、無為に過ごすよりは堂々巡りでも思考を続けているほうが安心を得られるというジレンマ。そんな時、こんな気持ちを自分は世の親たちと共有できているのだろうかという疑念が生まれ、共有しているのだとしたらもっとそのことについて語り合いたいし、そうでないとしたらそれはそれで寂しいという、いずれにしても孤独な想念に捉われ、気分は益々低調になる。今日妻と一時間ほど話して、自分は全く孤独ではないことを改めて知った。子どもは親を始めとする援助者がその心を深く理解すればするほど心を開き、この世界を信頼することができるようになるということ。そして親の子どもの心への理解の深さは、何より親の自分自身の内面への省察の深さに比例するということ。このことを信じて、反省することをやめず、二人で支え合いながら頑張っていくのみだ。