大した被害にもあってないくせに頭は大分混乱しているので、個人的体験、所感の範囲で日記を書く。
地震が起こった当時、妻と息子はママ友親子と一緒に子育て支援施設に行った帰りで、そのまま足を延ばして、四人で横浜そごうの屋上で遊んでいたそうだ。人工芝の上を駆けまわっていた息子は突然の衝撃にその場にへたり込み、抱き上げた妻も立っていられないくらいの揺れを感じて膝をついた。大量のカラスが低空飛行で屋上に迫ってきて、空の色も妖しく、ママ友は直下で大きな地震が起こったと勘違いしたという。すぐにテレビをつけて震源地を確認できた僕と違って彼女らには携帯に入って来る断片的な情報しかなく、どこかに大きな津波が押し寄せたと聞いて、じきに横浜港にもそれが来るのではないかと怯えた。フットサル場でコーチをしていた人々が、子ども連れの彼女らに近づいてきて「大丈夫ですよ」と声をかけ、そごうの店員さんたちとともにベビーカーを運んだり、子どもを抱っこしたりしながら階段を下り皆を地下二階のスペースまで誘導してくれた。店はほどなくシャッターが閉められ、帰る手段を持たない子ども連れの客だけが八階の応接室のような部屋に案内されて、食べ物や水などが配られたという。僕は知る由もなかったのだが極度の緊張と階段の上り下りによる脱水症状で、妻の体調は最悪に近い状態だった。彼らがいる場所と、とりあえず無事、と書かれたメールだけを僕は受け取っていた。
私鉄線が、当初の再開予定時刻の午後五時になっても復旧せず、JRが終日の運休を決めたというニュースを見て、僕は実家の車を借りてダメ元で横浜に向かってみることを決めた。道路が詰まっていてたどり着けないのであれば、また戻ってくれば良い。デパートの中にいるのだから飢えることもないだろうが、自分が行かなければ少なくともそこで夜を明かすことになってしまう。気持ちが動揺するのを防ぐために、繋がりにくいメールであえて息子の状態については尋ねることはしなかった。道路は案の定混んでいてバイパスに入っても人が速足で歩く以上のスピードでは流れない。FMのDJは、どこかの浜に二、三百の遺体が打ち上げられている、というニュースの後に、停電で不安だというリスナーを真剣に勇気づけていた。誰もが混乱し、興奮し、価値判断の基準が定まっていない。二時間ほどでランドマークタワーが見えてきたが、そこからも車は一向に進まない。二車線道路の真ん中を救急車がサイレンを上げてすり抜けていく。歩道にも、道路沿いのコンビニにも人が溢れている。
そごうまで一キロ弱の地点に車を止め、走ってデパートにたどり着くと、どのシャッターも閉まっていて中に入れない。防災対策室の窓を叩いて、妻の名前を告げ館内放送で呼び出してもらう。二十分くらいのやきもきする時間の後、ドアが開いて見慣れたベビーカーが見えた。息子が僕の顔を見るなり抱きついてきてくれた。ママ友がまだ一緒だったことをその時に初めて知った。結局店内には八時間以上いたことになるが、妻はその間のそごうの店員の方の対応に甚く感謝していた。地震発生直後から館内放送も含めて訓練された冷静さ、的確さを保ち、とにかく客を安心させることに心を砕いてくれていたのだという。最後も彼らはベビーカーを持って車まで見送りに来てくれた。ママ友を家まで送ってから家に帰り、息子を寝かしてからも妻はずっと跪いたままだった。立つとあの時の記憶が甦ってきて恐ろしいのだと言った。
翌朝は昼前に三人で駅前まで散歩に行った。駅からは、昨日家を出たままの姿のサラリーマンやOLが大勢、重い足取りながら安堵の表情を浮かべて改札を出てバスに乗り込んでいく。空は快晴で、僕らも改めて自分たちの無事に感謝する。現地の惨状について知るようになったのは、それから帰ってテレビをつけてからだった。
津波に押し流される町だとか、作業員が懸命に対応に当たる中で爆発する原子力発電所だとか、ああいう映像は、9・11の映像のようにいつかは放送されなくなるのだろうか。花粉症のように目が痒く、胃液が止め処もなく溢れて吐き気がする。あの津波が横浜港を襲っていたら、駅周辺は間違いなく壊滅していただろう。平和は日々勝ちとられる奇跡だ、という言葉があるが、命についても同じようなことを思う。土曜日以来、計画停電等の情報を見るため以外にテレビをつけていない。
息子はあれ以来、夜になると不安げな夜泣きをするようになった。こうやって日記を書いたり、ああだこうだとおしゃべりして整理をつけられる大人と違って、言葉をもたない息子の頭の中では、記憶の回路がショートしてまだ火花が散り続けているのだろう。彼に対しても大人に対するのと同じように、話しかけ、感謝の気持ちを表現しないといけない。頑張ってくれたこと、体調の悪いお母さんを気づかって水を運んでくれたこと。
多分、金曜日に帰宅困難を経験した多くの首都圏人は今同じ心境を共有していると思う。当日は僕らも幾分かは被災者であり当事者だった。ようやく帰宅して安堵に傾きかけた心に、現地の圧倒的な惨状が襲ってきた。当事者のはしくれであった分、何かをしたい気持ちはあるが、何をすれば良いのか全く分からない。義援金、ボランティア、SNSでの情報拡散…。どれも簡単なことではないし、自己満足以上の有効性を発揮するためにはそれこそ相当な額なり労力なりが必要とされる。停電や交通マヒが解消され、首都圏での秩序が回復されるにつれて、僕らの気持ちの荒廃や落ち込みは癒され、生活は日常性を取り戻していくだろう。そうなったとしても現地の回復はまだまだ先のことだ。微力な自分たちに何か貢献できるとすれば、僕らが今やろうとしていることを、ずっと先まで続けることだと思う。そのためにも僕たち自身が早く回復しなければならない。