仕事部屋のドア越しに、妻と息子のユーモア溢れるやりとりが聞こえてくる時、僕は秘かに最も大きな幸福を感じる。子どもは何にもまして彼自身であることに加えて、付随的ながら父と母それぞれの似姿でもある。妻と息子とのやりとりは、僕のお気に入りの二人のキャラの絡み合いであると同時に、妻と幼い自分との架空の抱擁のようにも、幼い妻と母親との過去にありえたかもしれない二人だけの時間の再生のようにも思え、言葉にできない錯綜した響きで僕の部屋に届いてくる。こんな些細な物音でここまで想像をたくましくできるなんて、もしかすると子どもを授かることについて僕が内心抱いていた思いには、母親になった妻が見てみたいという下心が紛れていたのかもしれないと邪推してしまう。毎日家にいて、母と子の交流を傍目に見ている中でこの頃僕の中に広がって来たのは、今更ながら母親業一般に対する相当に深い尊敬の念である。日中は言葉を話せない子どもの細かい挙動を恐るべき注意力で観察して記憶にとどめ、子どもが寝た後は彼が内側に温めはじめている意思を推し量って、成長の大きな流れを掴まえようとする。自分の言葉や行動が子どもの目にどのように映っているかを想像し、また彼が伝えたがっていた意向のうち分かってあげられなかったものはなかったかを反省する。この形にならない作業で、家事や子どもの身の回りの世話の合間を埋めながら母親の一日は終わっていく。子どもが大人になったら何一つ覚えていない時間のすべてを、ゴールのない営みに費やしていく毎日。どこかの育児書に書かれていた言葉。「母親は完全な職業である」。