妻がいつかの忘年会のビンゴゲームで当てたiPod nanoが出てきたので、Boseの専用スピーカーを買ってようやくわが家でも居間で音楽が聴けるようになった(DVDレコーダーはとっくの前から壊れているし、ラジカセは大きすぎて床に置かざるを得ないので息子がすぐに寄ってきて音量をMAXまで上げては泣き出してしまうので使い物にならないのだ)。最初iTune Storeで買ったブランデンブルグ協奏曲を聴いていたのだが、これを聴きながら朝ごはんを食べているとホテルのラウンジにいるような感覚でどうにも場違いなので、先週TSUTAYAに適当な子ども用の曲集を探しに行ったら、なかなか良いものが見つかって最近は主にこれ聴いている。キングレコードから出ている『かわいいどうよう ベスト60』というCDで、NHKの『みんなのうた』よりももっともっと古典的な(自分がその曲を知っていたことさえ忘れてしまっているほど自明な)童謡がたっぷり収録されている。大人が独唱している曲もあれば、子供の合唱曲もあるが、どの曲も歌手の声の通りが良く、伴奏やアレンジもシンプルで聴きやすい。全曲聴き終えて、概ね今に残る童謡はさすがに良くできたものが多いなぁという感想なのだが、歌詞をよくよく聞いてみると違和感を覚えてしまう曲がいくつかあるのも事実だ。『どんぐりころころ』はただの植物の実を勝手に擬人化して、たかだか池に落ちたことに聴き手の同情を引きつつ、じゃあ突然出てきたどじょうだかなんだかがこの窮地を救ってくれるのかと思いきや、どじょうにそのような力などなく結局どんぐりは地上を懐かしんで泣きながら終わるという非常に虚しい筋になっているし、カラスにわざわざ「なぜ啼くの」などと問うてから、人好きのする説話的な解釈を披露してみせる『七つの子』には志村けんでなくても「カラスの勝手でしょ」という感想をもってしまう。子どもは別にどんぐりが池に落ちたからといって同情などしないし、その同情しない子どもが、この曲を聞いて落下したどんぐりに同情するようになったとしても全く益はない。子どもが無駄に苦しむだけだ。僕が胡散臭さを感じるのは、それ自体は非日常的である文学的な空想を、同じく大人にとっては非日常である子どもの世界に押し込もうとする姿勢なのだと思う。同じ意味で、自身の幼年期の記憶を子どものための歌として聞かせようとする『赤とんぼ』にも強い違和感を覚える。あの曲で歌われているのは、老境に達した人間が過去を懐かしんでいる郷愁であって(その限りでは美しい歌詞ではあるのだが)、決して子どもの現在の感性ではないからだ。
この曲集で僕の一番のおすすめは『おんまはみんな』というこの曲だ。

「どうしてなのか だれもしらない」なんて、最初に聞いたときはなんて無責任な曲だろうと思ったものだけど、何遍も聴くうちにこの開き直りが、人間の領分を超えた事物への確かな畏怖と信頼に支えられていることに気づくようになった。そしてこの感性は大人にも子どもにも共通するものだ。人間は馬が走る理由も豚の尻尾が巻いてる理由も分からない。でもその姿を見て「パッパカ」とか「チョンボリチョロリ」とか表現することはできる。子どもだってイルカを見ても「バア」、風に吹かれても「バア」って立派に表現している。「おもしろいね」はきっとこの表現の自由のことを言っているのだ。畏怖と信頼をもって自然を踏みしめた時、僕らの感性は馬のように駆けだしていくだろう。