近頃のエントリーは、小学生の時に一度だけ作った家族新聞の域を出ない、犬も食わないような内容が続いているが、まあそういう時期だということだ。
不規則に訪れた僕らの休日。お茶をして、丸井で靴を買って、人通りの少ないそごうの二階のテラスで遊んだりしてから、さあそろそろ帰ろうかという段になって、ふとルミネの有隣堂に寄りたくなった。ゆっくりしていいよ、という妻の言葉を背に早速理工書コーナーに飛び込み、この本を読み終わったとき世界の見え方がどれだけ変わっているだろうという甘い夢に思いを馳せながら大抵は読みもしない数学や物理の本をあれやこれやと手にとって眺め、しばらくするとそれに飽きたので今度は、これも高校時代からの習いで人文書コーナーに立ち寄る。理工書のコーナーも比較的閑散としていたが、こちらは平日の昼間にしては全体的に混んでいる店内の死角になっているんじゃないかと思うほど人が少ない。ただ一人、バキバキにデキデキ感を漂わせた勝間和代ばりのファッショナブルな女性が厳めしい顔つきでフーコーだのデリダだのの背表紙を睨みつけている。僕はそんなお歴々の名前を目にしただけで何だかお腹が一杯になってしまって、結局以前から、僕の意中の数学者が寄稿しているのを知っていた『現代思想2009年12月号 特集=日本の数学者たち 和算から現代数学まで』を手にレジに向かった。レジは案外込んでいて、整列用の二列目のラインまで人があふれていた。そこに並んで周りの書棚に群がる人々を何とはなしに眺めていると、レジとは逆側の通路をベビーカーとそれを押す女性が横切るのが見えた。赤ちゃんは年の頃八ヶ月ほどの男の子、女性は三十台の半ばで、本を探している様子は全くないから、きっと子どもに飽きさせないためにぐるぐるとそこら辺を回りながら誰かを待つための時間をつぶしているのだろう。女性は、あえて狭い通路に入って人と人の間をすり抜けたり、回る向きを変えたりしながら、子どもに色々な景色を見せてあげようと広い書店のあらゆるコースを歩き回っている。でもそんな女性の意図とは裏腹に、子どもは落下防止用のベルトに巻きついたヘビのぬいぐるみにご執心の様子で、体を前傾にしつつ、ヘビを眺めたり齧ったりを繰り返している。女性は微笑を浮かべながらも、注意深く子どもの後ろ姿を見守っている。そんな二人の姿が、レジを待つ僕の周りの人ごみや、本棚の影から現れては消え、現れては消え、を繰り返した。出てくると思った遠くの角からなかなか出てこないので、おかしいと思って見回すと、しばらくしてすぐ近くのコーナーから飛び出てきて僕を驚かせたりもする。これだけ混んでいるのに、小回りを利かせてすいすいとあらゆる一角に顔を出す。それにしてもあの親子はなんと似ていることだろう。手で丸めた団子のように円い頭、大きな瞳。今でこそ大人っぽい微笑を浮かべてはいるけど、女性も八ヶ月の頃にはあんなキョトン面をしていたに違いないと確信させるほど二人の雰囲気は似通っている。そう、親子といえども結局は同じ穴の狢なのだ、と僕は思う。いくら女性が一日の終わりに、目を細めながら、「あの子は今日も健気だった」などと、イッパシの親らしい口を利いたとしても、神さまから見たら、女性もまた赤子のようなものに過ぎないであろう。僕はここで、赤子という言葉を、未熟、という意味でだけ使っているのではない。それ以外のもう一つの大切な意味、つまりこの世に贈られたgiftという意味で使っている。赤子は、まず親への文字通りのgiftとしてこの世に送られてくる。ほほ笑むことを覚えた赤子は、親以外の家族や友達、道行く人々への無償のgiftともなる。一番可愛い時期を過ぎても赤子はgiftであり続ける。兄弟同士、友達同士の支え合いは、赤子がこの世で生きていくことに躓いた他の赤子へ差し出すgiftであろう。子どもというgiftを受け取った親は、自身もまた赤子へのgiftたるべく徹底的に己を捧げるだろう。そして年老いた時、人は新しく生まれてきた赤子に、最後のいともささやかなgiftを与えることになる。どれだけ多くの老人が、これまで街中で息子に優しいほほ笑みを注いでくれたことか。そこに彼らが一生の間に受けてきたgiftがそのまま返礼として含まれていると考えた時、僕らはどれだけ幸せを感じることができたことか。