午後に妻の耳鼻科や息子の三種混合が重なって大忙しだったけど、七時過ぎには何とか支度を整えて家を出て、この日は横浜のホテルに泊まった。部屋に着いた時はもう息子の普段の就寝時刻を過ぎていたので、慌ててルームサービスで夕食を注文し、くつろぐ暇もなくバスタブに湯を張って息子を風呂に入れ、その後にすかさずミルクとお白湯を投入。物珍しい室内の家具や照明を眺めたり、きれいにメンキングされたベッドの上で寝返りや飛行機を楽しんだりしてくれている間に、ほとんど味わう間もなく夕食をビールで流し込んで、すぐに消灯。妻が寝かしつけてくれている間、僕は浴室の椅子に座り、煙草を吹かし腹ごなしをしながら息子が寝るのを待っていた。二人とも、とりあえず子どもに早く寝てもらわなければと、休憩もとらずに手分けして頑張ってきたのだったが、息子がようやく眠りに就き、一日の仕事から解放されて浴室に入ってきた妻と固い握手を交わした瞬間、自分たちの置かれた事態をほぼ同時に了解して苦笑した。寝かしつけたところで、何もやることはないのだ。寝ている息子のそばでおしゃべりをするわけにもいかないし、照明をつけなければ本を読むこともできない。三人だけで他所に泊まることが初めてだったから、そんなことも分からずに僕らは急いでいたのだ。暗い室内から窓を見下ろすと、真下の波止場に眩しい青の電飾をまとった派手な小船が浮かんでいて、それが大桟橋の方向へゆっくりと移動している。もし二人だけだったら絶対に今から散歩しに出かけてるよね、と声を落として僕が言うと、妻は笑いながら首を縦にふって同意した。ほんまに何もやりようないなぁ。でもこの感じ、それほど悪い感覚ではない。こうしてひそひそ声で話さなければいけないのは、窮屈なようでいて、なぜかとても自由な感じもするのだ。
僕は紅茶を啜りながら、この感覚についてしばらく考えてみる。「もし二人だけだったら」。たとえばこの「もし(A)」は、「もしもう少し早く家を出ていたら」の「もし(B)」と同じだろうか。英文法で習ったifの用法の問題のような気がするけど、ちょっと自分で考えてみよう。もしもう少し早く家を出ていたら、僕らは今頃どう過ごしていただろうか。ホテルには夕方頃到着し、ルームサービスではなく街のお店に入って食事をして、部屋に帰ってから余裕をもって息子を寝かしつけたのは良いけど、結局やることがないと言って笑っていたのではないだろか。仮に運悪く街のお店で食中毒にあったとしたらどうだろう。その場合でも余程のことがない限り、通院後の数日で、僕らは食中毒に合わなかった場合と比べてそれほど遠くない地点に立っていることだろう。そう考えると「もし(B)」はある過去の時点で行った選択を境に分岐し、一定の時間の経過後、同様の結果に収束していく二つのbypassを示しているに過ぎないとみることができそうだ。そして、それに続く従属節には二つのbypassから見た風景の違いを巡って、選択が良かったのか悪かったのかを、納得や後悔という形で記述すれば良いと言うことになる。二つのbypassは別れたように見せかけて、また戻ってくる。東名高速の右ルートと左ルートが同じ山地の中を通っているように、二つのbypassは大雑把に見て一つの同じ現実を貫いているといってよさそうだ。
他の「もし」も考えてみよう。たとえば未来への想定の「もし(C)」はどうだろう。僕は今、僕らが10年以上話し合ってきた「もし二人に子どもが生まれたら」、「もし二人のまま生きていったら」という「もし」を思い浮かべている。この「もし(C)」と「もし(A)」との違いは前のケースに比べるとより明瞭だ。「もし(C)」は諸条件が未来に及ぼす不確かな影響についての不確かな推測であり、その不確かさに起因する未来への不安や選択の迷いである。一方で、「もし(A)」は、すでに確定している現実を踏まえながら、それと相反する別の事態を仮定して語っている。つまり「もし(A)」には、「もし(C)」にあるような時間軸上の矢印はない。
なぜ僕がこんな回りくどいことに思いを巡らせていたか、というと、さっき「もし二人だけだったら」と言ったときに生じた、普段他の「もし」について考える際に付いて回る気持ちとは全く無縁の感覚を不思議に思ったからだった。「もし(B)」を語るときに感じる悔いや恨みの感情、「もし(C)」を語るときに感じる不安や迷いの感情を僕らが感じなかったのはなぜなのだろうか、と。その理由は、こうしてさまざまな「もし」を仕分けていくことで徐々に見えてくる。「もし二人だけだったら」と言った時に僕らが想定したのは、有り得べきであった過去の別の選択でもないし(もし(B))、未来の方向で不安げに漂う無数の可能性の波でもなく(もし(C))、僕らが存在する現実と相反する別の事態、いわば現実世界に対する並行的な別世界であったからなのだ。「もし(A)」と同じ語法で、別の文章を作ってみるとそれがはっきりする。たとえば「もし世界の空間が四次元だったら」。「もし二人だけだったら」は僕らにとってこれと同様に空想的な仮定だった。僕らの五感は三次元空間に拘束されているから四次元の世界を正確に想像するのは容易なことではない。しかし逆に言えば、三次元空間に根ざした確かな現実感が、僕らが四次元の世界を想像させるための自由を与えてくれているともいえるだろう。「もし(A)」はある意味で別世界への想像を経由した、この全き現実の確認行為なのだ。
誤解しないでほしい。僕はもう三人になった以上、二人や一人の気持ちなど全く分からないと言っているのではない。また、一や二より三や四のほうが偉いと言いたいのでもない。僕らの現実は、ある数(基数)によって様相を一変する。そしてその基数はとりあえず、親しく交わる人間、あるいは生命の数である言うしかないだろう(さっきから二人、三人と書いてきたが、僕ら自身の場合に関してもそれは基数として正確な数字ではない)。基数は整数であり、整数の大小に優劣はない以上、基数の大小による世界の別体にも優劣はない。問題は数の大きさそのものではなく、その増減のほうにある。生まれれば数は増え、死ねば数は減る。そのたびに人それぞれの世界が変わっていくということだ。
この夏、子どもの誕生を祝いに来てくれた人物のなかに、次のような疑問を僕にぶつけた人間がいた。自分は今の彼女を深く愛している。彼女も自分を愛してくれていると感じている。子どもが生まれて自分に向けられていた愛が子どもの方に向かうのではないかと思うと自分は怖い。お前はそれを怖いと思ったことはないか、と。この率直な疑問は、僕がかなり長い時期にわたって抱いてきた恐怖と完璧に符合していたにもかかわらず、僕はそれをある種の違和感をもって聞き、しかもその違和感を言葉にすることができないまま疑問にも応えずに終わってしまった。半年たった今なら、僕はそれをとりあえずこう表現してみるだろう。その時になれば、恐れは数学者の自由な空想のようなものに変わっているはずだ、と。