月曜日から金曜日まで、和歌山の妻の実家に里帰りをしていた。実家では、お母さんが美味な鯛の塩焼きをはじめ立派な料理を揃えてお食い初めをやってくださった。子供がまだ妻の胎内でクリオネ状態で泳いでいた昨年以来のお墓参りをし、また妻の小さい頃からの遊び場だった神社への宮参りもすることができた。郊外の団地育ちの僕は、これらの行事について、4年前に生まれた甥っ子の写真を見るまで知る機会がなかった。写真では知ることができなかったが、実際の行事は清新で、厳かで、切ない感情の揺らめきがあった。かつてその場にいた人々が抱いていた心持ちの一部が、行事の場に身をおくことによって初めて、僕たちの元に伝わってくるような気がした。それは他の誰かが袖を通した服、他の誰かが身を横たえていた寝床にすべり込んだときに感じるかすかな温もりに似ていた。儀式が僕らに与えてくれるのは、目に見えない人々とのそんな温もりを通じた交わりの場なのだろう。