元旦の朝に和歌山からおせちが届く。お母さんと妹さんが共同で作った絶品の料理が段ボール一杯分。早速妻が大皿をいくつも出して並べ始めるが種類と数が多すぎて、家にある皿では足りないくらい。これに、昼に母親が届けてくれた栗金団と黒豆、かずのこ、年末に親戚から貰ったワインを合わせて、すぼらな二人は今年も最高の正月が過ごせた。年賀状に書かれた友人の近況にも励まされつつ。
毎年元日に録画してから少しずつ見ていくテレ東の芸人番組。今年はぐっさんが歌った『スローバラード』がいきなり胸に響いた。抱き合う恋人たちの耳に届く音楽といえば尾崎豊の『I Love You』みたいだし、彼女の寝言を聞いたといえばまるで村上春樹の『風の歌を聴け』なんだけど、重要なのは、この曲がこれら二つの名作よりも先に書かれていることでも、人間の心の叫びのような生々しいソプラノサックスの響きでもなくて、愛し合った時間がたった一夜の夢として描かれていることなんだ。二人だけの時間はいつかは終わる。車のドアを閉め切って、毛布にくるまっても、想いを込めてつないだ手がいつの間にかほどけてしまうように、それはいつもとてもあっけなく終わっていく。でもそんな恋の切なさを歌いたいだけなら、歌手は現在型で束の間の逢瀬を歌えばよい。曲が再生される時間、聴き手が歌の中の情事に重ねた想いは、曲の終了と同時に、あるいは曲の余韻とともに消えていくだろう。聴き手はその瞬間から、再び立ちあがってくる味もそっけもない現実に対処しなくてはならない。映画館を出て、商店街の救いようもない雑踏に戻ってきたときの幻覚。『スローバラード』を聴き終わったときの余韻は、これとは少し違っている。逢瀬は、ここではすでに終わった昨日のことである。小さな車で彼女の寝言を聞いただけのただただとるに足らない時間。この時間は、ロマンティックに誇張されることもなく、夢であったと語られるのみだ。この曲を聴きながら、僕らは、僕らの中に眠る小さな時間たちに次々と微かな光が灯っていくのを感じるだろう。光は互いに重なり合いながら僕らの足元に届いてくる。無数の小さな夢たちは、過去の方を向きながら後ろ向きに歩いていた僕らを、少しだけ未来へと押し出すのだ。