旅立つのはもう今月末だがこの期に及んでギリシャ語教室に通うことに決める。何校かの外国語教室に電話。まあ予感はしていたが、ギリシャ語の看板を掲げ、ネイティヴの講師がいてスケジュールも生徒の都合に合わせて自在に決められる、と謳っている教室でも、実際には日本人の講師しかいなかったり、予定が合わず授業を入れるには本当に限られた窓しかあいていなかったり、そもそもギリシャ語を教える講師が存在していないところもあり、なんだかなあという感じだ。競合する業者の中で最も誇大な広告をするところに業界全体の基準がそろってしまうのは自然なことで(グレシャムの法則)、実際僕自身の中にもappearanceが良くて、消費者的な選択や自由の幅が広そうな商品を選んでしまう傾向はあるので、業界側はその力で回っているだけなのだけど。それでも中の一校は受付の方が講師の方とまめに連絡をとって調整に努めてくれていてありがたい。運よく都合が合えば今週から通うことになると思う。
印刷してファイルに収めたコード譜の数も20に迫ってきて、そろそろ左手でコードもしくアルペジオを押さえ、右手で旋律を追うという演奏に当初感じたほどの新鮮さを感じなくなってきた。この初歩的な奏法で充足感を得るとなると、曲はメロディーが本当の意味で歌っている(主にバラード調の)ものに絞られてしまい、豊穣なコードパターン、リズム・パターンのサポートでクオリティーを上げている曲だとどうしても響きが簡素でもの足りなく聞こえてしまう。僕の知っているレパートリーではメロディーだけで勝負できている曲が早くも底を付きかけているというのもあって、新領域を開拓すべくスピッツの"チェリー"にチャレンジ。知り合いのピアノ弾きが「スピッツはメロディーが同じ昇降パターンの連続で退屈だ」と言っていたが、確かにこの曲の魅力は、AメロBメロの背後でギターが一定の和音で奏でる小刻みなリズムと、一転してサビで展開する音域が広く教会の鐘のような鷹揚さで鳴る分散和音との対比の妙にあり、さらに言えばイントロがこの両者の美点(リズムと音の飛躍)を先取りして聴かせているという点にあるだろう。実際に弾いてみると、ワンパターンの演奏で硬直した左手がリズムも刻めずコードも奏でられず、案の定お粗末な出来に終わる。何度か原曲を聴いて耳を慣らしてみようと試みるが、なかなか聞き取れず、聞き取れても覚えられずの繰り返し。これまでも別にリズムと和声を雑音として聞き流していたつもりはないのだが、とにかく鍛えられていないことを実感する。空疎な演奏で悪戦苦闘していると、たまりかねた妻が何やら物言いたげに近づいてきたので鍵盤を任せてみたら、嬉しそうに弾き始めた演奏が楽しくて感激する。左手は幅広い音域を押さえ、右手はコードの転回を利用しつつ自在にリズムを刻み、なんと7和音で伴奏を演奏してみせた。原曲の音符を忠実に追っている訳でもなく毎回演奏はちがうのだが、曲の最低限の特徴を踏まえながら自由に創造性を働かせて遊んでいる感じ。釣られて僕が高音でメロディーと単純コードを担当して10和音でチェリーを連弾する。所詮は素人の合奏に過ぎないのだけど、これをプロの腕前で大勢の観衆の前でやったらどれだけの陶酔感だろうと想像した。若くして成功したミュージシャンが一時の全能感に染められ、現実生活とのギャップとの折り合いをつけられずに薬物や犯罪の世界に堕ちていく心理が分かる気がする。