体操女子個人総合の床運動大島杏子選手が決めた後方宙返り2回半ひねりという技は、妻が小学校時代に得意としていた技なんだそうだ。オリンピックレベルでは決して高度な技ではないし、大島選手はスタミナを消耗した演技の最後に持ってきていたから、演技の最初に使っていた私なんかより全然すごいと本人は謙遜していたが。
未経験者にとって、選手による演技や競技が最も驚異的に感じられるスポーツが体操とシンクロナイズドスイミングではないだろうか。男子100mにしてもハンマー投げにしても平泳ぎにしても、僕らの中には、走る、投げる、泳ぐという基本的な身体感覚はあるわけで、9秒69というタイムといえども、僕らが記録するであろう10数秒というタイムの延長上にあると、辛うじて想定することは可能だ(もちろんこれは競技を経験したことがないから言える話で、実際には何次元にもわたる肉体的・技術的ステージを突破してアスリートは9秒台に入っていくのだろう)。それに比べると体操では、まずその入口にある宙返りやバク転という基本技において、できるできないがはっきりと弁別されるのであって、できない人間にとって、その先に広がるさらに高難度の技が織りなす世界は、解読不能の別世界として映るわけだ。要するにリテラシーがないということなのだが、そのことはただ競技をテレビで観戦しているだけでもはっきりする。僕も含めて多くの人は観戦中、月面と新月面との区別もつかないままただ空中でぐるぐる回転する姿に魅了されているだけで、その演技の様相を表す言葉はほとんどもっていないし、もっといたとしてもそれは最後の着地が「決まった」か「崩れた」かを評価するだけという場合がほとんどであろう。妻と一緒に見ていると、彼女が個々の技を理解する正確さに驚かさせる。今の選手はひねりが半回転多かったからその分点数が上だとか、着地こそ乱れたが入りの技の難度が前の選手よりはるかに高いだとか。正直こっちは前の選手の技どころか、今の選手が前向きに飛んだのか後ろ向きに飛んだのかすら覚えていないから、はぁーとかへぇーとか言いながらただ頷くしかない。おそらく身体の中に回転やひねり等の体操的な感覚がある人間にとっては、他人の演技も脳内で模倣することによって仮想的に自分の演技となりうるのだろう。だからこそ、彼女の口からは時折、あたかも自分が踏切りや離れ業に成功したかのような切迫した喚声やため声が漏れていたのだろう。
四年に一度、こうしてゆっくりと一緒に見ていると、普段あまり聞くことがない話が聞けて面白い。体操を始めたのは小学校入学と同時期くらい。もともと体操向きの運動神経があったので(親父さんは昔逆立ちで階段を上っていたらしい)上達は早くてすぐにクラブの女子のトップになった(妄想)(同じクラブの男子に田中光がいた)。早いうちから関西の大会で2位に入ったりして将来はオリンピックに出場できるものと真剣に考えていたし、そのために遊びも勉強もしないで練習に打ち込んでいたが、5年の時に柔軟を無理に行って、脚の長さが左右で何センチも変わってしまう大怪我をしてしまう。半年以上の間、練習どころか学校の体育もできなくなった。結局怪我は全快せず(今も腰の痛みはある)中学入学と同時にやめた。怪我はそれ以外にも何度もした。後遺症が残っているものもある。足が地上を離れる飛び技は、次からできなくなるかもしれないという自己懐疑との精神的格闘だという。入部と同時にコーチに見初められて英才教育を施されたので、年上の女子によくいじめられた。今ある人間観のうちネガティブな側面の一部はその時に培われたものだ、等々。最初は楽しく聞いていたのだが、そのうち腹立ちとイライラを抑えられなくなってしまった。子供を教室に通わせてる親なんか気が気じゃないだろうな。なんにせよ無事にいてくれて良かったよ。