人類の歴史というと、僕らは普通、自分たちの思い描く祖先が「人間らしく」暮らし始めて以降の期間を想像する。日本人なら、木に生るどんぐりを食べていた森から平野に下りて、目に見える社会を築き始めて以降の約二千年を、あるいはメソポタミア文明との連続性を信じる西洋人なら、最古の文字が粘土板に刻まれて以降の五千年を。このことは「歴史」という言葉がもつ狭義の意味に対応している。つまり「歴史」という言葉は、人が文字を発明し自分たちの営みを記録し始めて以降の時代を指していて、これは我々から見ると史料的に跡付けうる時間的範囲と一致している。僕らが「歴史」としてさかのぼれるのはその範囲までである。しかし当たり前だが、僕らは何も史料の中に見出されうる先人の文化のみを過去から引き継いでいるわけではない。生物学的形質でいえば、僕らの直接の祖先(現生人類)が出現したのは三万年前であり、それより前の祖先がサルから別れたのが四百五十万年前だった。人が種として生まれてから、「人間らしい」暮らし始めるまでには、歴史(有史)時代の約1000倍に相当する長い助走期間(考古学的時代)が必要だったということになる。ここからは視点を微視的な尺度に切り替えて、われわれの代謝機能、生殖機能のおおもとである細胞の系列をみていくと、まず、最初の多細胞生物が発生したのは今から九億年前、核を持つ細胞、真核生物の発生が二十五億年前、そして最初の生命(原核生物)が誕生したのが三十五億年前。人類の広義の歴史をたどっていくとこのように、歴史時代、考古学的時代、地質時代にまたがるさまざまなスケールの数字を目にすることになる。二千年前、五千年前ならともかく(1915年生まれ、93才の僕のおばあちゃんだと22人分で二千年だ)、それ以前となるといずれもあまりに天文学的でピンとくる数字ではない。そこでこれらの年代を人に分かりやすく示すための試みとして例えばこのようなものが考えられてきた。このリンク先の資料では地球誕生の四十五億年前を24時間に対応させているが、他にも生命誕生の三十五億年を24時間に換算したり、あるいは24時間の代わりに1年をもってきたり、とさまざまなパターンがある。いずれも億単位の時間を、人間が日常感覚で把握しうる時間に縮小して表示する試みである。世界終末時計(Doomsday Clock)も、縮尺こそ示されていないとはいえ、同様の発想に基づいていると言えるだろう。こういった試みはとても教育的である一方で、ミスリーディングな一面をもっていることを忘れてはならない。それは人間の理解を超えた時間を日常的な単位に換算した結果として、我々の歴史自体も縮小してしまうということだ。「45億年=24時間」のモデルを見てみよう。これによると人類が農耕を開始したのは午後11時59分59秒である。つまり人類の「歴史」が始まってからまだ1秒も経っていない。また現行の世界終末時計はこう警告している、核戦争による人類の滅亡まであと5分であると。我々の計算は、地質年代を日常性の領域へと圧縮したが、そのことによって地質年代のタイムスケールの膨大さはもはや問題ではなくなった。焦点は明らかに、以前よりはるかに矮小でとるにたりないものになってしまった人類の歴史のほうに移っている。巧みな箴言や衝撃的な警句が効力をもつのはそれが発せられたしばしの間だけで、それからあとは当初とは逆方向へ効力を発揮し始める。人々は心細さに対処するために、人間の歴史や人の一生なんて所詮はその程度の儚いもの、と高を括るかもしれない。あるいは滅亡への不安に適応するために、もう何が起こってもいい、と考えるようになるかもしれない。恒等変換以外の変換では必ずなんらかの量が失われるが、ここで失われているものは皮肉にも我々が主題にしていたはずの時間のvastnessなのである。我々が祖先から途絶えることなく続いてきた流れの中にいることを自覚し彼らの営為を正当に評価しようとするなら、日常性の時間感覚を保ったままここに至った道のりに想いを馳せるべきだろう。あくまで人類の歴史は我々の尺度で五千年間は続いてきたのだし、我々は滅亡のときまで少なくともあと何年かは生きなければならないのだから。
ところで、そのようなことが果たして可能だろうか。『火の鳥 - 未来編』で手塚治虫が取り組んだのはこの問題だった。そして彼は日常性の尺度を変えることなく、生命がたどってきた大河のごとき道のりを描いてみせた。縮尺を使わないとして一体どのような手があるのだろう。何のことはない、彼は一人の人間に、三十五億年の時間を生きさせるのである。西暦3404年、超水爆を用いた核戦争によってすべての生物が死に絶えた地球の上で、火の鳥はマサトに次の人類の誕生までの時間をたった一人で生きることを命じる。不死の肉体を負わされたマサトははじめその意味が理解できない。核の灰が覆う地表を、他の生き残りを探してさまよう日が続く。ある日マサトは窓の割れた観測所の中に、五千年後、放射能の危険がなくなったときに自動的に目覚めると記された冷凍保存とおぼしき棺桶風の装置を見つける。それからはその「恋人」との五千年後の出会いが孤独なマサトにとって唯一の希望となる。なんとなれば地上にはそれ以外生命の痕跡は何一つ残っていなかったから。五千年が経つ。しかし棺桶は開かない。マサトは毎日辛抱強く棺桶の前に通い続ける。そして三百年後、待ち切れずに棺桶を開く。そこで中にあったものは…。結局マサトは三十五億年待つのである。この三十五億年は決してただの誇大な数字ではない。彼は文字通り、毎日待つのである。僕らが毎日恋人を待つように。彼が海に放った「炭素と酸素と水素のまざりもの」が生命を与えられるまでに彼はあと何年待たなければならないだろうか。ようやく誕生した生命が真核生物としての機能を得るまでに十億年、それが多細胞生物となるまでにさらに十六億年の歳月。やがて生物は地上に上がりようやくマサトにその姿を見せるようになるだろう。哺乳類が誕生し、人間が生まれる。そして人間たちは三十五億年間見守ってきたマサトの前でまた争いごとを始めるだろう…。ここで物語は終わる。僕らは本を閉じ、今あるこの世界に帰ってくる。そしてふと思う。マサトが待ち続けた人間との再開から数万年が経った。人間が「人間らしく」暮らし始めてから、ちょうど彼が棺桶の前で待ち続けたのと同じだけの時間が流れた。彼はまだ見守っているのだろうか?