ボブ・ディランといえば最近新たな曲との出会いがあった。日本では未公開ながら、トッド・ヘインズという人が作った"I'm not there"というボブ・ディランの伝記映画がアメリカで封切られてすでにいくつかの賞を受けたりしているらしいのだが、その映画のタイトルにもなっている"I'm not there"という曲。調べてみると、ディランが1967年にザ・バンドとともに録音したものの、"The Basement Tapes"というアルバムのための選曲時に候補から省かれ、この映画によって紹介されるまで日の目を見なかった、とある(そういえば、10年以上前にジョン・レノンの曲で同じようなのがあったね。"Free as a Bird"とかいう…)。映画のサントラがもう出ているようなので全曲聴くにはこれを買えば良いが、一部はここでも聴ける(ただしYouTube版は曲の前景に立ちふさがるウッド・ベースの音がとても聞き取りづらい)。曲は、愛している彼女から去っていかなければならない事情が、ディランらしい回りくどさと内省の力で長々と歌われるというもの。テンポは単調で曲調の変化にも乏しいが、一本調子に見えるテンポもコードも聞くほどに心地よく、聞きようによっては宗教的な経典の朗読のようにも聞こえる。ディラン特有の生真面目さ、気難しさ、孤独(この孤独感はジョン・レノンの"Norwegian Wood"に共通するものがあるように僕には思われる)が凝縮されているようで一辺に好きになってしまった。
映画のサントラはディラン作曲の34曲を収録した2枚組で、演奏は"I'm not there"以外は他のアーティストが行っているとのこと。これもいかにも彼らしい巡り合わせだなと思う。ボブ・ディランほどカバーで聞く機会の多いアーティストは少ないのではないだろうか。今ちょっと調べてみたところではメジャー・アーティストによるものだけで、"Knockin' on Heaven's Door"が27回、"Like a Rolling Stone"も27回カバーされている。僕自身初めてボブ・ディランを聴いてみようと思ったのは、京都北大路のミスドで流れていたローリング・ストーンズの"Like A Rolling Stone"がきっかけだった。"My Back Pages"はキース・ジャレットによるピアノ版が最初で、次がジョージ・ハリスンニール・ヤング、ロジャー・マッギン、トム・ペティー、エリック・クラプトン、本人の豪華ライブ共演版。"Knockin' on Heaven's Door"はガンズ・アンド・ローゼズが最初でその後に聴いたエリック・クラプトン版で魅力に目覚めたんだった。ボブ・ディランの曲の特徴として、これだけ有象無象のグループ、アーティストにカバーを許しているにも関わらず、大抵のカバー作品の出来がすこぶる良い、という点があげられるだろう。逆にカバー曲で啓蒙され、期待してオリジナルに当たってみてその意外なほどのインパクトの薄さ、貧弱といってもいいほどの簡素さに戸惑うことも多い(ここら辺はコアなファンからは異論があるところかもしれない)。華々しい脚色、アレンジがほどこされがちなカバー曲とは対照的に、原曲は陰鬱で低調な印象を与え、ディランの決して歌手としての高スペックを誇るわけでもないストイックな声質、唱法がこの印象に輪をかける。これは例えば文学作品中で頻繁に引用される文語訳から聖書に入った人間が、より文献学的研究の成果に忠実な口語訳を読んでみてその素っ気なさにがっかりするという事情に近いものがあるかもしれない。聖書の場合、使徒も福音史家も修辞を駆使するタイプの文筆家ではなく、原文のギリシャ語はとても簡素な形式で書かれたものだと聞く。つまり文語訳や英語の欽定訳にみられる、大仰で厳かで劇場的なトーンは福音に対するある種の解釈を表現したものであるということができるし、これを敷衍するなら、ボブ・ディランのカバー曲も、一見難解で晦渋な原曲に対する一種の解釈、作者によってそこに埋められた理念を聴き込み、読み解いた感動の表現であって、どっちが良い悪いの話ではなくそもそも原曲とは別物として考えるべきものだともいえるだろう。言うまでもなく、これだけの種子に多彩な花を開かせる原曲の土壌としての豊かさには本当に舌を巻かざるを得ない。
改めて"My Back Pages"の詩を読んでみて、僕にはもうこれだけでノーベル賞をあげても良いんじゃないかと思えてしまう。個人的にはそれくらいのお気に入り。(ここからちょっと悪口が入る)。大学紛争に敗れた日本の団塊世代が残したフォークソングの多くが、敗北の原因を検証することなく、それでいて未来に対する決断をすることもなく、要するに何も学ばないまま、ただお祭り騒ぎ的高揚を甘い感傷に変換するだけで、かなわぬ夢想と儚い郷愁に満たされた日本的情緒に帰っていったのに対して(ダスティン・ホフマンになれなかったことを嘆き、故郷に恋人を残したまま都会の欲望に敗け続け、社会に吸収されていく己をごまかすために余暇で岬をめぐるだけの日本のフォーク。いったい彼らが批判した戦中派とどこが違っていたのだろう)、転向と揶揄されることもあったこの歌は(実際に厳密な意味においての転向ではあっただろう)、自己批判の態度と次世代への意識を持っているところが決定的に違っている。この歌のもつメッセージ性は、プロテスト・ソングの旗手であった作者が自己欺瞞を白状して、その原因をめぐる洞察を、次世代への道標となりうる象徴に高めたうえで提示しているところから発している。僕はそこにレンブラントの自画像のごとき厳しい視線が宿っているのを見る。この歌の末尾はこう歌っている、「僕らは僕らが批判した大人たちに負けず劣らず年老いていた、僕らはまだ若い、さあまた動き出そう」と。日本のフォークは逆にこうとしか歌えなかった、「もう大人になるしかないんだ、さあ諦めよう」。時代の流れのしかるべき澱みに収まった団塊世代は、連合赤軍の悲劇を傍目に見ながら、次の世代に受験教育を残した。それによって育まれた僕らは、今のところ彼ら以上に何も生み出せていない。もちろんこれは彼らの問題ではなく、僕ら自身の問題だ。