ここ最近、我が家で「生き切る」というフレーズが流行語になっている。この言葉、元々は春に三重の友達の家で話していたときに友達が口にした言葉で、iの母音が三つ連続する語感がその時から妙にツボに嵌り、家に帰ってからもやたらと言いたくなる感じが続いてたびたび口にしてきたんだけど、そうするうちにこの言葉が意味的にも重要なものを含んでいるということが自分なりに分かってきて、今は二段階目のブームに入っている状態だ。用法はいたってシンプルで、ある人についての会話をしていたり、テレビでスポットが当たっていた人物に感銘を受けた場合などに「生き切ってるね〜」といって頷き合うというだけのもの。内容としては、例えば同じような文脈で主に肯定的なニュアンスで使う「頑張ってるね」とも、否定的な効果を狙った場合に使う「必死だな」とも、似ているようで微妙に違った奥行きをもっている。最初のうちはうちらの間でも、共通の友人や、お気に入りの芸人や作家、スポーツ選手などがが奮闘してるさまを賞賛する場合なんかに、「頑張ってるね」の代用品として使われることが多かったのだが、それがある日、どろっどろの元政治家に対して使われたときから、この言葉の使用範囲がぐっと拡大することになった。テレビで見たその元政治家(ハマコーではない)はインタビュアーの質問にも答えず、政界への薀蓄と煮ても焼いても食えない人生訓を延々と垂れ流していて、その洗練とはかけ離れた言葉遣いと振る舞いは、もう本当に救いようのない有様だったんだけど、それを見て「いや〜、どうしようもないね」と無力感につつまれながらつぶやいた僕に、妻が「うん、生き切ってるよね」と返したのだった。意外な用法に初めはびっくりしたものの、考えてみると確かに自分たちには、悪いこともやってきて逮捕歴もあるような俗悪な人物に対して「それでも頑張ってるよね」などと評価し擁護する道徳的な理由もないし、「必死だな」と高みから見下すような余裕や経験もない。かといって肩をすくめながら目をつぶって見なかったことにする態度ではあまりに芸がないのだとしたら、もうその表現しかないのではないかと思えてきたのだ。何より、「生き切る」という言葉に含まれるある種の悲哀感が、テレビに映る、節度や気遣いとは無縁で生きてきたことを示す顔に深く刻まれた皺と、ばっちりと符合しており、異化効果を伴いながらじわじわと沁みてくるのだった。それ以来、「生き切ってるね〜」の対象は大幅に広がった。容易な応用としてのみのもんたは当然として、必ずしも好意をもっていない人物、好ましいと思われない努力に対しても、異化を経た後の言葉は次々と当てはまった。この言葉に含まれるミニマルな肯定の意味合いが新鮮で、使いすぎかなとも思うけど、じゃあ生き切ってない人を挙げてみようと思って考えてみると、そういう人物を思い浮かべるのはひどく難しかった。というか誰も思い浮かばなかった。では、この「生き切る」という言葉の示すもの、あるいはその様態を全ての人間に認めるこの言葉の志向性は何に向かっているのだろうか。

O'Hare had a little notebook with him, and printed in the back of it were postal rates and airline distances and the altitudes of famous mountains and other key facts about the world. He was looking up the population of Dresden, which wasn't in the notebook, when he came across this, which he gave me to read:
On an average, 324,000 new babies are born into the world every day. During that same day, 10,000 persons, in an average, will have starved to death or died from malnutrition. So it goes. In addition, 123,000 persons will die for other reasons. So it goes. This leaves a net gain of about 191,000 each day in the world. The Population Reference Bureau predicts that the world's total population will double to 7,000,000,000 before the year 2000.
"I suppose they will all want dignity," I said.
"I suppose," said O'Hare.
(Slaughterhouse-Five / Kurt Vonnegut, 1969)


人間であるかぎり、全ての者が第一に具備するもの。Vonnegutはここでそれを理性(Kant)とも欲望(Freud)とも社会性(Aristotle)とも労働(Marx)とも呼ばず、尊厳(dignity)と呼んでいる。理性も欲望も社会性も労働も、彼にとっては、尊厳自体から要請される派生物、属性、イデオロギーのようなものに過ぎない。人間は理性的でないことをもって尊厳とすることもできる。あるいは、労働によって食い潰されないこと、社会性を捨て孤高であることによって尊厳が守られる場合もある。尊厳さえ守られるならば人間は欲望さえ手放すことができる。これらのものが尊厳に資する場合が多いのも事実だけれども、これらのものが尊厳維持のための餌として働いてきたことが、そのことをもって時代的・社会的に称揚される根拠となった。例えば僕が、考えうるすべての属性において僕に優る人間と対面し、その人間があたう限りの論法を尽くして僕の劣等性を証明したとしても、僕は自分の尊厳を放棄することはできないだろう。「オレはダメな人間だから」というのは、不要な陣地を切り捨てて防衛圏を狭め、そのことによって絶対防衛圏を死守するためのパフォーマティブな言説に過ぎない。「〜である」ことへの自信を失うことはできても、「在ることの尊厳」は捨てられない。生きている限りそうであるとしたら、atheistであったVonnegutがdignityと呼んだものを、Paulなら原罪、イエスなら神の愛と呼ぶのだろうか。
別に僕はここで"What a Wonderful World"的な世界観を獲得したと言いたいわけではないし、「生き切る」という言葉を博愛主義の語彙に並べたいわけでもない(そんなことをしたらこのユーモラスな響きが死んでしまう)。それどころか、ありとあらゆる人間に対して、僕らは反感を抱くことをやめることはできないだろう。ここでは「生き切る」という言葉に伴う解放感が、全ての人間に尊厳が具備されているという事実性に対して開かれることによって得られたものであったということが、僕に対して明らかになったということで十分ということにしたい(ただ、相手への攻撃はどこまで行っても相手の尊厳を剥ぎ取るまでには至らないということは覚えておいてもいいだろうし(イジメがエンドレスになるのもこのことが原因だろう)、理性が尊厳の上に構えられた装身具のようなものだとしたら、相手への説得も別のより良い装身具を提供する形で行われるほかないということなのだろう)。
昨日は夜の一時を回ってから六本木ヒルズへ向かった。246を隊列を組んで上っているトラックの中には、ちゃらちゃらタンデム走行をしてる僕らに対して、エアブレーキで威嚇する機嫌の悪いお兄ちゃんもいた。喫茶店ではファッション業界人と思われる僕らよりはるかに若い連中が自信に満ちた口調で討議をしていた。彼らの全てに対して尊厳を認めることと、文明社会の行く末をひとつのパースペクティブに収めうるどのような世界観が両立するのだろうと考えた。すると、僕には大量消費や大量廃棄、地球の温暖化や文明の没落といった大きな物語たちが、一民族の隆盛と没落を謳った神話のようなものとして靄の中に現れてくるような気がするのだった。