水面から顔は出たものの不安定な低空飛行は続いている。脳の活動も低調で、そんなさなかにこうやって殴り書きすることがリハビリになるのかどうか、心もとない気持ちで書き始めてみる。こういう気分が続くと悪いことばかりのようだが良いこともいくつかあって、その一つは例えば他の人との距離が悲しみを介して近づいたように感じられること。人を陥れる危機のあり方は人それぞれだとしても、悲しみにはその固有の色ないしは温度ともいうべき表情がある。自分が沈みかけている時には、悲しみを纏った人の存在が、その来歴はともあれ手を取り合ったときに感じる素肌の温度のようなものとして感じられるような気がする。ただしこの共感には悔恨を伴ったほろ苦さがつきまとっている。自分も同じ根はもっていたはずなのに、どうしてあの時あの人の前を素通りしたのだろう。そういう想いもここしばらく小刻みに胸の中を去来している。つまりはここでも自分の忘れっぽい性格が仇になっているのだ。まったくこの男、調子のいい時はこれまでの人生まるで何の挫折も無かったかのような顔をして澄ましているから…。この頃、愛読していたブログが更新をやめてしまうことが多くなった。世界と向かい合う果敢な意志の表明の後に、憂鬱な空気を残したまま放置されていく文章の集積。この空気は今や決して通勤電車のホームにだけ漂っているものではない。今この世界を生きていく上では、ある程度の責任を持って引き受けなければならない共通感覚でもあるのだろう。
いつものように妻にはずっと支えられている。普段はお寺の稚児みたいな顔をして僕の冷やかしを浴びているのに、相談をもちかけると人格が変わったように大きく構えてこちらの言葉を受け止めてくれる。やさしくて、聡明で、達観していて、それでいて自分の弱さと限界も知っておりそれも隠すこともしない。こんな時でも、駅に迎えに行ってから彼女が寝るまでの時間は僕にとって毎日が夢のようだ。妹が今日言っていた言葉。「賜り物はもう全てあなたに与えられている」。そう、これは別に妻に限ったことではない。これまで行き交った人々との邂逅はこの厄介な性格と表裏一体の賜物として、一貫した計らいのもとに与えられたものだった。この試練がなければこれらの出会いも決してなかった。僕はいま一度このことを噛み締める必要がある。与えられたものを踏み台にして次をねだる人間の不明。無い物ねだりの性。肝に銘ずべし、信仰うすき者。