三重の友人宅では生まれて半年の子供ちゃんと一杯遊ばせてもらった。赤ちゃんの一挙手一投足が面白くてついつい目をやってしまっていた僕に彼女と遊ばせる場を作ってくれた奥さんの計らいに感謝。仰向けに寝転んだ赤ちゃんをのぞき込んで笑いかけたり、音の出るおもちゃを鳴らせたり、キーボードで不細工な曲を演奏したり、とかげダンスを踊ったり。「子供をあやす」という言い方があるけど、実際には大人はそんなに偉いもんじゃなくて、子供との交渉はもっとかなり相互的・情動的なコミュニケーションになる、ということがわかった。向こうが心当たりのない理由で泣き始めるとこちらも相当焦るし(それは大人が自分に理解のできない理由で怒っている時の子供の戸惑いと対称のものではないだろうか)、こちらの微笑みに対して向こうが微笑み返してくれた時には、共感・一体化の喜びに心臓を鷲掴みにされる。そしてその時も、最初の微笑みを誘っていたのは赤ちゃんの方だったりする。人間の罪悪感の生理的な基盤は、排泄をめぐる親の叱責にあるとする精神分析の有名な学説があるけど、前に甥っ子ちゃんが家に遊びに来て、大人に「どうじょ」と言いながら物を渡し、間髪置かずに物を受け取って「ありがと」と言う互酬と返礼の遊戯をエンドレスに繰り返すのを見ていた時にも感じたように、未分化の混沌としたエネルギーの中から乳児が形成していく感情の種類は別に罪悪感に限ったことではなく、したがって僕らが大人になってから経験する幸福感や充実感も含めたさまざまな情動も、生理的には幼児期にセットされた感情の母体(matrix)の再生に過ぎないのかもしれない、ということも感じた。大人はもちろん今さら自分のmatrix自体をゼロから再形成することはできないが、赤ちゃんが押したボタンに反応して自分の内部のどこかに明かりが灯るのを見つめたり温度として感じたりすることはできるだろう。そのことによって大人は自己の形成史をトレースすることになるのだろうし、また自前の感情のモードのバラエティーを確認することにもなるだろう。子育てが素晴らしいのはそれぞれの自己(再)形成が相互の豊かな共感の中で行われるというところで、それによって感情の母体は信頼のシステムによってsecureされることになるのだと思う。こういったことは大人にとってもまちがいなくある種の新生であるはずで、そういう意味で、僕にとっては子供を授かった友達夫婦の新しい姿を見るのことも大きな楽しみだった。
(これは蛇足だが、上の過程は全て形を変えてではあるけど僕ら夫婦が十年前から多かれ少なかれ実行していることではないか、と気づいた時にはとても勇気づけられたのを思い出す。子供を前提にしないという考えで連れ添ってきた僕らは、半ば本能的に代理の道を見つけ出したのだと思う。重要なのは子供という実体ではなく、ある他者との間に、過去の親との関係を相対化し脱構築することを可能にする新しい関係を築くことができるか、ということであって、この図式を踏まえればたとえ独身者であっても子育てにおいて親が通過するのと同型の精神史的展開を辿ることは可能だということではないだろうか。)
家には子育て本の類いが置かれていて、実際かゆいところに手が届く便利な情報が(多くの場合その根拠が示されることなく)日本的マニュアル本の要領で整理されており、経験のない親にとっては必携のものだと思ったが、その中にハイハイを始めるのは何ヶ月から何ヶ月の間、というようなことが細かくグラフ化されたページがあって、これには何ともいえず残酷なものを感じてしまった。子供の成長がこれよりも早ければ親は高揚するだろうし、少しでも遅れると否応なく不安に駆られるだろう。子供と共にどういう道を歩むのかという方向感覚を定めないままこういうマニュアル本に依存してしまった一部の親が、子供が進学する頃には、この手の本を学習塾のカリキュラム表に持ち替えているというパターンは、僕にはわかり易すぎるくらい自然な成り行きのように思われる。子育ての過程が相互的なものであるかぎり、子供の成長は必然的に親の模倣を基調にするしかないだろう。こういうマニュアル本によって自らの内に呪いのように刻印された競争意識を掻き立てられた親たちが、自分が弾きもしないピアノを習わせても、自分が楽しんでもいない勉強をさせても、子供はそこに競争ゲーム以上のものとしての意味を見つけることはできない。親の立場として自分がそうである以上のものを子供に要求することはどうやっても正当化されないのであって、「教育だなんだと言っても、結局自分がしっかり生ききるしかない」という友人の熱き言葉はかなり真実に近いものなのだと思った。