時間を切られて仕事を渡されると性格的にいつも追い詰められてしまうところがあるけど、前にしばらく忙しくなるって書いた仕事も蓋を開けてみれば例によって別に大したことはなかった。某銀行に入るモジュールに仕様変更があるので、その実装(プログラムを書くこと)を仕上げてテストする、設計書も改訂するというものなんだけど、設計は知らないところでもうきっちり固まっているし、コードの管理やテストの手順も誰かが書き残したノートがあるのでゼロから自分で考える必要はほとんどなく、ほとんどマニュアル通りに作業を進めていくことができる。慣れた人なら自分なんかよりは早く終わらせることができただろうが、さすがに2倍の早さで終わらせるのは無理だろう。慣れない人は自分より時間がかかるかもしれないけど倍も時間をとられることはないだろう。やる内容が決まっているから最低限のリテラシーをもった人に時間を与えればアベレージのアウトプットを期待して大体間違いはない。この業界で人月という単位が有効である所以だ。
みんなはるか過去のことになったセンター試験のことを馬鹿にしてるけど、じゃあこの仕事をやっていてあの穴埋めの数学の問題を解く以上の知性を求められる機会がどれだけあるかと考えるとはなはだ疑問に思う。ある程度の規模と歴史のある会社ならどこでも、システムや製品を作るためのガイドラインが成文・不文を問わずきちんと継承されているものだ。ガイドラインは細かいフェーズに分けられていて、前段のアウトプットを後段の処理手順に入力するという方針を外さなければ決定的な論理上の間違いを犯すことはほとんど避けられる。個々のフェーズで使うツールもそれぞれに進歩しているので、結局人間の手を煩わせるのは、前の式で計算した値を次の式の正しい変数に正確に代入する、という注意力の問題に尽きる。ミスさえしなければ大抵の空欄は自ずと埋まっていくのだが、いつもミスなく満点を取れる人間もいない。
(ここまでの話の中で見落としている要素があるとすると、ワークロードのバランスやお互いの相性も考慮しながら人員を管理したり、買う気のない客を騙してビジネスを捏造していったりする労働の人事・営業的な側面だろう。抽象化された労働力の中には、機械やソフトウェアには代えられないこの手の能力も当然含まれているにちがいない。日本での理系・文系の区分は特殊だという話はよく聞くけれど、学問的対象が自然か人文かという本来の区別に、日本では労働の現場におけるこの2種の力の確執が加わっていて、それが学部偏差値や生涯年収の比較にまでわたる反目の構図を作り上げてしまっているのかもしれない。)
そもそもこんな与太話は組織論の教科書を開けば第一章に載っている話だろうか。ただそれでもここで僕が個人的に銘記しておきたい点は、このマニュアル化されたガイドラインによって遂げられる資本の圧倒的な生産力についてである。このシステムが数千万の人間を動員して日本中の山や谷にトンネルと電線と地下道を通し、メディアとネットワークを溢れさせた。資本の論理といえば誰もが簡単に「自己増殖」を上げるけれど、僕はこの言い方には進化論と同様の目的論的な誤謬が含まれていると思う。生物が進化を目的としていないのと同じで、資本も自己増殖を目的としているわけではない。個々の生物の論理は基本的には自己保存であって(サケとかカマキリの複雑な話はあるけど)それが淘汰の場に晒されることによってその時点の環境にふさわしいものが選択され生き残っていく。進化論は、現存する生態はそんな風に出来上がってきたんだよという、「世界のあり方」に対する発見のことだ。資本もまた徹底的に代替可能な労働システムという現実的なメカニズムを内包して駆動している。進化だとか豊かさだとか自己増殖だとかいうのは、資本主義を良い者か悪者にしたい人間が政治的な空間でつぶやくお題目であって、そういうものをひとまず取っ払わないと経済的な現実は見えてこないだろういうのがとりあえずの僕個人の注意点だ。