この世の底を流れる異様な暗部の動きを示すような大規模テロ計画が摘発された当の日にこんな話をするのは本当にどうかと思うんだけど、僕自身の人生上のモラルの基準から見ると、世界戦後の亀田親子は未だに減点0でがんばっている。内と外のどちらにいい顔をするかという処世の仕方の観点から見ると、リング上で子が果たした告白と、件の漫画家連中との親のバトルには10点満点をあげてもいいくらいだ。あれだけの人材が、オーロラビジョンの電光体のように個々人が過剰に同一化したこの時代に登場してきた現実を考えると、どうしても大阪(もしくは関西)という風土に考えが及んでしまう。身内への愛を恥ずかしげもなく示しながら外に対しては牙を剥いて対決のポーズをとるという生き方は、どちらかといえば一神教的な世界観の中でこそ育ってくるもので(それは同時に「世界に存在するのは神と自分だけ」という独我論の危険も孕んでいる)、外と上手くやっていくための活動の中から生じるエントロピーを身内に廃棄していくような日本的風土の中では間違いなく毛嫌いされるものだと思う。それが文明的距離でいえば東京より欧米から遠い大阪で賞賛されているという事実。あの親子の特異性はもちろん身内愛に限ったことではなくて、パフォーマンスやメロドラマも十分僕らを楽しませてくれている。それらも含めて、大胆と計算、演技と本心がギラギラしながら絡まりあったあの強烈な個性が大阪の土から生まれてきたという事実。テレビで陰惨な事件の報道があってその容疑者が大阪人と聞くと、お決まりになった「さすが大阪だね」のセリフを呟いて盛り上がったり、綾戸智絵のCDを聞きながらしんみりしたピアノに乗せて語られるありえないMCに絶句したりして、我が家では大阪とは何か、関西とは何か、というのはこのところちょっとしたテーマにさえなっている。そして言わずもがなのお笑い文化。関東にももちろん面白い人はいるんだけど、笑いの筋力の強度ではいえばサンデーサイレンスメジロライアンくらいの開きがあるのはこれはもうどうしようもない。宮川大輔千原浩史松本人志がネタ話を披露していく「人志松本のすべらない話」を、僕はこの世で最も下らないものへ向ける「呆れ」と、湯川秀樹小林秀雄の対談に向けるに等しい敬意を払いながら見ている。これらのうちのどの要素が僕を関西で挫折させたのだろう。どの要素が僕を関西の人と結婚させたのだろう。いずれにせよこれからもますます関西から目が離せそうにない(一言でいうと嫌いなんだけど)。