今日は肉親が出演するチェロの演奏会に行って参りました。演目はGoltermannとかいう作曲家のConcerto。聞いたことのない作曲家の、一般人はあまり耳にすることのない楽曲なのですが、この曲、チェロ業界の中では演奏技法の基本が全て詰まった見本のような存在で、エルガードボルザーク、ベートーベンやシューベルトといった名高いチェロ曲への「入り口」に位置づけられる一品だそうです。
なるほど、聴いていると細かいところはよく分からないが、素人目にもその難易度はひしひしと伝わってくる。しかし演奏は、所々に仕組まれた技術的な難所を障害として捉えるのではなく、そこにあくまで音楽的な意味を付与し続けながら音楽として鳴らし切ろうというもの。アマチュアの演奏会というと、とりあえず弾ききろうとか、この曲を演奏したという履歴がほしいとかの余計な雑念に捉われて、音楽そのものを忘れてしまいがちになってしまう場面があると想像するのですが、そうした局面でもあくまで「音楽的に」に歌いきろうという姿勢からは、音楽にとって演奏会という場がもつ意味への深い理解が感じられたような気がしました。
美術品のような、展覧会場というオープン・スペースで自由に往来する人々の自由な視線を浴びつつそこをのぞき込む人々に別の眺望を供給していく、いわば「世界に向かって開かれた自由な窓」というべき存在とはちがって、音楽には弾く者・聴く者の時間と精神を、作家の内面性や精神性という抽象物で占拠するという不自由さ、干渉性のようなものが感じられることがあります。曲を習得していく作業も、作曲家のスコアと一身に向き合いながら作曲家の意図を「解釈」し、そこに弦の動きに合わせて自身の感情を乗せていく、息詰まるような作業の連続と思われます。音楽がもしここで終わってしまうのなら、音楽とは自己研鑽のために師から与えられるいかにも厳しい修行ということになってしまうでしょう。
音楽を、和声法と対位法に基づく音の配置学のように捉えていた自分に対して、ある時友達が、音楽にはばらばらの個人をかりそめにも一体にする力があると指摘したことがありました。日々の練習では見通しがたい音楽のそのような力は、人々の前や中で演奏して初めて発揮されるものでしょう。これまで「作曲家と演奏者」の間にあった重心は、演奏会場の「演奏者と聴衆」とが置かれた空間に移動していく。そこで初めて音楽は人々を抱きこみながら自由に宇宙を渡っていく可能性をもつ。
今日出演した人たちがどんな思いで演奏に挑んだのか。それは人それぞれだし演奏しない自分には分からないけれど、音楽に限らず自己完成とか自己実現とかを超えた何かを見越して研鑽に励むのは、本当に意味のあることだなぁと改めて感じた次第でした。
帰り道、何かの記念にと久しぶりにクラシックのCDを求めてレコード屋に行ったのですが、肝心のチェロ曲が、国内盤・輸入盤を問わず、マイスキー、マ、デュ・プレくらいしか置いてない。人気あるのはわかるけどこれはあまりにも偏りすぎではないかと。それにマイスキーや最近のマは妹が酷評していたのもあってあまり聞きたくなかったし、デュ・プレは例の映画のエピソードで完全に「よごれ」のイメージが定着してしまったので、しかたなくチェロはあきらめて、ホロヴィッツスクリャービンスカルラッティ五島みどりパガニーニを買ってきました。この2人ならとりあえず安心して聴けるだろうと。
妹大推奨のチェリストJulius BergerのCDは、今度違法にコピらせてもらうことにします。