会社をもうしばらく続けるのか、思いきって独立の道を選ぶのか。この大問題を巡る僕の思考。
夢を追いかけたくはあるけれど、もう昔ほど若くないし、ギャンブルみたいな生活が破綻したら一体どうするのか?何をしてでも食っていくだけ稼いでいく自信はあるけれど、今後はもう今みたいな恵まれた職場にはありつけないだろうし、ここは甘い汁を吸えるだけ吸っておいたほうが得じゃないか?しかしそうは言っても、金なんていくらあってもこれで安心ということはないんだから、やりたいことがあるなら、多少のリスクは背負ってでも目指すべきだ。それが人生への尊敬というものではないだろうか?
嗚呼!僕はいつからこんなにバカになったのだろう。いや、「本当の自分は頭いいでっせー」みたいなこういう言い方は間違っている。自分の記憶が正しければ、生まれてこのかた僕はずっと人並みにバカだったはずだしそのことをわかってもいた。だからもっと正確に言うなら、いつから僕は、転職アドバイザーの無料アドバイスにも劣るこんな考え方、こんな普通の考え方しかできなくなってしまったのだろうか?
普通の思考というのは、常識に照らせば誰もが正面きって反論するのをはばかられるような思考のことだ。1と2なら2が大きいから2を選ぶべきだと教える。これに「論理的思考」が加わると1と2を、101と102、に広げてくれる。1が1だと思えない人、2が1より大きい理由が分からない人、2が大きいのがわかっていても2を選ぶことへのためらいを捨てられない人。彼らは初めから排除される。普通の思考は、そういう人たちを、深く深く傷つける。
普通の思考の一見した明快さは、利害の方向と範囲が初めから決められてしまっているところから来ている。必ずしも結論に早くたどり着くわけではないが、軌道は明確だ。さっきの僕の堂々巡りには、僕と僕の家族の経済的な利益が1か2か、ということを焦点にしか考えられていない。まったくこれのどこが大問題なのか、という話である。
堀江さんが大変なことになって、僕もこの醜いアヒルの子の失墜劇を半分以上は面白がりながらながめているのだけど、やり口がcompliantかどうかは別にして、「誰でもやろうと思えばできるのに誰もやらない」道を進もうとした人間を、誰もが通る道を歩いてきた人間が叩いているさまを見ていると、ふと方向は違ってもそんな道を歩いている身近な人に対して、かける言葉さえ見失ってしまっている「普通な自分」のことに思い当たって、自分が恨めく、少し寂しい気持ちになってしまった。そうはいっても、普通な目には仕事も株式も、どんどん普通に映ってくる。夜風でさえも、僕を普通に浸していくのだ。