酔い醒めの妄語

今日は会社の友達と久しぶりに飲んだ。終電まで。なんせ愉快、楽しい。おかげで帰ってビデオを見る予定をすっぽかしてしまった。すんまそんなぁ。また明日見ような。
東京での仕事が決まったとき声をかけてくれた友達が、ちょうど同じ時期から大変な激務の中にいるらしい。久しぶりに会って、顔が痩せ細っているのに驚いた。自分はこういう話に内心痛切に同情する。考えているうちに、よその体制や先輩に対して勝手にだんだん腹が立ってくるほどである。心の中ではその先輩をぶん殴ってる光景すら想像する。ここ最近、この「共感」が、なんかちがうのではないかと思いだした。これは共感を装った何か別のものではないのか。もちろん、問題は自分のほうにある。
結局自分は逃げているだけなのではないか、とも思うのだ。良い待遇の中で、ちゃらちゃら仕事をして、会社に愛想を尽かされたら、後腐れなくお別れして、あとは競馬で食っていけば良いと思っているのである。たしかに、いくらチャラチャラとはいってもさすがにストレスはある。人には得手不得手があって、他の人にはなんでもないことが、人にどんなに甘いと言われようともどうしようもなく苦痛であったりもする。自分にとって労働とはそのようなものである。チャラチャラは、窮鼠の一噛みのようなものかもしれない。だがそこには、常に逃げ道が担保されている。それは、前向きに仕事をとらえることを困難にさせるような思考の重力として、ずっと心に押しかかっている。
こうして曲りなりに2年間働いてきて、「会社なんて楽して金をとってくるもの」というナイーブな仕事観は、ほとんどそのまま変わらずにきた。こんな皮相なところから湧き上がってくる同情が、形を歪めているのも無理からぬ話なのだ。それぞれに一生懸命対処している個々実々のケースに対して、響いていくはずがない。「そいつをぶん殴ればいい」なんて、まったく迷惑千万この上ない話である。
仕事をしている人とそれでは自分は何を共有していけるだろう、と思う。大体ことは「何かを共有する」というほど大げさなものなのか。何気ない会話の中で、思ってもみなかったところで、ふっと通い合うような感覚。仕事をしている、していないに関係なく、生きていれば、そういう瞬間は至るところに見つけられる。そういう小文字の共感を、互いに探していけば良いだけなのではないか。何も共通するものがない時、人は互いを会話することすらできないだろう、とはスピノザの言葉である。だとすれば、会話をする、というそのきっかけの中に、もうすでに何か小さなものが共有されている、ということもできるだろう。