日本語障壁の話

amazon.comに載っていた『夢十夜(英題Ten Nights' Dream)』の著者紹介で、漱石がロンドン留学時代、マルクスの『資本論』を読むことを通して文明化への懐疑を強めることになった、との記述があった。評伝の類は色々と読んできたがこれは初耳だったので意外に思って、ネットで調べてみたら、確かに漱石の蔵書に『資本論』はあってその出版年も留学時代のものだったが、実際の本には書き込み一つなく、要するに読んだ形跡は見られないということらしい。作家の研究というのは、良くも悪くもその当事国で一番盛んに行われているものなのだろう。
そこでちょっと思ったのが、私たち日本人は英語で書かれたこの誤った(この場合まだ確認されていない、という方が正しいかもしれない)記述を読み、その気になればそれを指摘してあげることもできるのだが、一方でその逆のケースはほとんどないのではないかということだ。日本は経済で世界第2位の先進国だが、他の先進国の大学で第1・第2の外国語に日本語を選ぶ殊勝な学生は、いたとしてもまだ少数だろう。ということは、例えば日本で出版されるフランス語小説の解説に、フランス人から見たら明白な誤りがあるというケースでも、当の国からの批判をほとんど受けないで済んでいるということになるのではないだろうか。これは出版物に限った話ではなくて、私たちはYahoo!NewsやCNNを見て「ああ、またアメリカ人が馬鹿なこと言ってるな」と容易に批判することができるが、日本の言論誌での発言や「朝まで生テレビ」の大激論などは、それが対外的なことをテーマにしたものであったとしても、外からの関心や視線からは全くフリーな空間で行われている、ということになる。この極端にunilateralな言説の流れを作りだす<日本語障壁>によって、日本で言論を商売にしている人間は、随分と得をしていることがあるのではないか。
私たちの、このようにBlogを書いてワールドワイドなウェブ空間に向けて私見を発信するという行為にも、そこに日本語が使われているかぎり、この<一方通行性・閉鎖性>はついて回る。この認識は、再確認しておいて損にはならないと思う。