経済学の不透明な描像(いつか『資本論』を読む?)

子供が投げる質問は、大抵は「トラとライオンが本気で戦ったらどっちが勝つ?」とか、そういう類だが、中にはたまに、こちらをうろたえさせる鋭い疑問が含まれていることもある。家庭教師をしていた子供にされた「10円玉って10円の価値があるの?」という質問もその一つだ。エコノミストや、今経済学を学んでいる学生達のうち、どれだけがこの質問に誠実に応えることができるだろうか。<経済>と経済学とが乖離して久しいと言われる。それは、"エコノミスト"と"経済学者"という、それぞれの呼称が帯びるイメージの違いが、暗に日本人の中で共有されていることとも関係があるだろう(この違いは"エッセイ"と"随筆"という日本語の違いとも似ている。誰も『この人を見よ』が"ニーチェの随筆"だとは言っても、"ニーチェのエッセイ"だとは言わないだろう)。<経済>問題はいつからか、経済の健康状態(景気)の問題として局限され、その診断法と改善策を研究する<病理学者>・<薬剤師>としてのエコノミストと、経済の生命そのものの探究から開始する<生物学者>としての経済学者は、別ジャンルの研究者ということになってしまった。経済学部の学生のほとんどは、「富国論」も「雇用・利子および貨幣の一般理論」も、「資本論」も読まないらしい。そんなものをいくら読んでも、景気判断の役には立たない、ということだろうか。
物理の世界では、高校レベルの教科書でも初めにニュートンの運動の3法則を学ぶのが原則になっている。大学に入ると、同じニュートンの手によって発明された微積分と組み合わせて、惑星の軌道が二次曲線を描くことが導かれる。高校で学ぶ単純な物の自由落下から、大学教養課程で学ぶ惑星や人工衛星の軌道計算に到る古典力学の輝かしい適用を通して、学習者は物理の「古典的描像」を習得する。物理学ではこの「古典的描像」が確固たる枠組みとして確立・尊重されているからこそ、相対性理論量子力学は革命的なインパクトをもちえたのだし、実際、場の量子論までは「古典的描像」を基礎として、その拡張として学んでいけるものなのである。一方、高校の政治・経済の教科書を読んでみると、最初のページに書いてあるのはヒックスによる貨幣の定義(価値の交換・蓄積・尺度の手段)であり、それにGNP、GDP等の国民経済計算が続くという具合で、基礎的な概念から積み上げていくという方法では叙述がなされていない。こういう教科書をいくら読んでも、たとえば価値尺度である貨幣の暴落=インフレーションがなぜ起こるのか、ということが少なくとも自分には全く分からなかった。
エネルギー量子の発見と、彼の名を冠したドイツの科学研究所で有名な物理学者マックス・プランクは若い頃、物理学と経済学のどちらを専攻するか迷った際に、結局「あまりにも難しすぎる」という理由で経済学を棄てたというエピソードがある。ここでいう難しさは、私たちをどうしようもなく支配しているように見える「暗い力」としての経済を、「お金とは何か」、「価格とは何か」、「労働力とはなにか」という根源的な問いから解明していくという試みを、プランク自身がおそらく想定し、その果てしない前途を悲嘆して述べた言葉ではないだろうか。しかし経済学の歴史で、実際にそういう試みがなされてこなかったのか、というと全くそうではなく、例えば、今の教科書で「神の見えざる手」・「レッセフェール」の楽観的な経済学者として数行で片付けられているアダム・スミスの「富国論」を直に手に取ってみれば分かるように、そこには「地代が如何にして発生するか」等の、私たちが既に自明視している事柄に、子供のように執拗に懐疑の目線を注ぎ、それをいちいち理屈立てて考え抜いていく作業が、分厚い文庫本5冊分に亘って続けられているのである。
株価はなぜ(その配当金以上に)上下するのか、貨幣流通量を変えるだけでなぜ景気が変化する(と一部で言われている)のか、なぜどんな時代でも完全雇用は達成されないのか、世界全体が産業化しても人類の食料需給は安定的に維持されるのか…等々。ちょっと挙げてみるだけでも、経済への「古典的描像」がないために分からないことだらけだということに気づく。そしてちょうど、トラウマは意識されない時にこそ、無意識の暗い力として意識の背後から一番大きな力を振るうように、それが分からないことによって、経済の暗い力はますます影響力を増して私たちを覆ってくるような気がするのだ。