ものが書けないのは

相対性理論でも不完全性定理でも、その理論の枠の中で完璧に理解していれば、いかようにでも表現できるものだ。伝え方・書き方は無数にある。
書けないのは、文才がないからでも、文章が下手だからでもなく、まずもって理解が足りないからだ。偉大な作家の多作は、その理解の深さから来ている。
だが、作家の作品を読んで、羨望の念に駆られ「すごい!」などと思ってしまった人の目は、その時点でもう内容ではなく文体の方向に向かっている。深い理解の上に積み上げられた言葉の列は、もちろん整然として美しい。が、羨望の念が昂じるとその美しさが、作者が発見した内容からでなく、作者がまとう「エートス」から発しているのだと錯覚してしまう。作家的なものの考え方、習慣、風貌。そういうものを身につければ、自分からもあんな文体が生まれるのではないかと。憧れに打たれてしまった人間は、作家的エートスを身に纏うための「勉強」を開始する。伝記への興味、濫読、放蕩…。「文学的生活」がそこから生まれる。

そうは言っても憧れの念は簡単に抑えられない。関西弁を使えば何か面白いことが言えるのではないか、と思ったりすることもある。
いざ、自分もきちんと理解するぞ!と思ってみても、いつも思考回路には「こう思いたい」、「こうあって欲しい」という呪縛(イデオロギー)が祟ってくる。イデオロギーの裏に潜在する諸力をあれほど鮮やかに捌いてみせた天才マルクスを人はどう読んだのだったか。イデオロギーに染まった人間を田舎者だ・カンチガイだと罵って弾圧した彼らは、イデオロギーから自由であるということが本当に可能なことなのかを考えなかった。マルクス的なものの見方自体が、19世紀という煤けた時代の産物だとしたら?
かくして史的唯物論(科学)は、最も強権なイデオロギーの1つとなった。

-
面白いことを言う人、美しいものを書く人。
彼らへの憧れは未だ残る。
面白い人は、場に紛れ込む違和感を正確に捉え的確に表現する。
美しいものを書く人は、他の人には霧に包まれて見えない深奥を表現する。
視線より早い理解、時代を見通す千里眼
何もかも見通す目を自分も身につけたい。
でも私たちは凡人なのだから。
まねごとはやめよう。時間をかけて、理解していくしかない。