ダルフール

そこで何か異常なことが起こっているのはもう多くの人が気づいているのに、そしてそれが自分たちの日常感覚に照らしてみても、とてつもな恐ろしいことであることもわかっているのに、いつまで待っても救出の手は差し伸べられず、状況はただ緩慢に残酷に進行しているだけように見え、多くの人はもしかしたら、その恐ろしいことが自分たちの目にふれないところで「完了」してしまうことを願っているのではないかと疑われもする。

迫害はいつもこのような黙殺の中を進む。

歴史を勉強したことがある人なら(むしろそのことを学ぶのが歴史の勉強なのだが)、どれだけ民族的・宗教的な外観をもった紛争や迫害も、その直接的な動因は社会経済的な諸利害に尽きる、ということを知っている(十字軍)。迫害されるのは、きまって多くの人にとっても目障りであったり、軽い侮蔑の対象であったりするから、そういう差別心・敵対心を組み込んだ正当化と合理化の施策が、直接的な諸利害の衝突を覆い隠し、民族的・宗教的義憤の装いを持たせることになる。ダルフールの虐殺の下層には、「イランとサウジアラビアを足した分よりも大きな油田」が横たわったいるのだという。

だが、政治はなぜ利害を暴力によって直線的に求めることを避け、わざわざ正当性を装うのか。それは多くの人には、利害の複雑なバランスシートの存在は隠されており、大衆の意思たる世論は、正義・懲罰・義憤等が支配する情動レベルで形成されるものだから。だとしたら、ここで方法が紹介されているプロテスト法(Sudan)も、無意味なものとは言えないかも知れない。
「大きな木の下に非難する難民」との絶望的な距離を感じつつ。