仕事中、PCからランダムに流れてくる曲の数々。中には何故こんな曲が僕の検閲をくぐり抜け、ライブラリに入り込んだのか理解しかねるような曲たちもある。若い頃には毛嫌いして耳を塞ぎ一顧だにすることもなかった音楽。それでも昨今はそんな曲にも少なからず心を動かされている自分がいる。唱法から詩までジョン・レノンのものまねをしてるだけの初期の佐野元春。本当の悲しみを知らず、一人前の悩みがないことが唯一の悩みで、ありもしない苦悩を追い求めることで何かを探している気になっている偽善的なU2。十代からの習いで、僕には音楽を聞いても本を読んでも、それを書いた人間が僕の言う「本当の悲しみ」を知っているのかどうかを見分けようとする習性が身についてしまっている。司馬遼太郎などは言うに及ばず、苦悩を芸術家の嗜みの一つとでも考えていそうな志賀直哉などは、十代の僕には最も遠いどころか、許し難くさえある存在だった。僕が独善的に規定している「本当の悲しみ」なるものが、実はこの世の悲しみのごく一部に過ぎないこと、赤ちゃんの泣き声や風の音、走り抜ける車の音のように、彼らの声でさえこの世の不可欠な何ごとかを代弁していることに気づいたことが、僕の心をほどき、ある程度まで彼らの声を受け入ることができるようにさせたのだと思う。これ自体全く偉そうな話だが。